第10話 深夜の異変 消えた父
蒼桐は上着を羽織ると、サイドテーブルのないベッドに腰をかけた。部屋はあの後も異次元空間が消えないので、半分が消し飛んでいる。ところどころに銀河の煌めきが見えているのだ。ちらりと覗かせたマイナス宇宙の空間はヒューマンには適応しない。吸い込まれないように、家具の配置を変えたが、それも飲み込まれてしまったので、服も減った。
「……兄貴、どんな爆弾送って来たんだよ」
兄の5D手紙を開いた時から奇妙なことが続いて、精神もそろそろ限界……と思いきや、肉体はそうではないらしい。空腹の音に、手のひらのナノパッチが反応した。
「いて」
合わないのか、入れる時に神経に触れたのか、手のひらが異物を感じてジンジンと痛む。
母親AIは今日も夕飯は出さないだろう。
父の命令……ではない。あのエマージェンシーコールから、母親AIはおかしい。
そもそも、今は台所の片隅で凍結した雪の丸坊主になっている。
雪……は有り得ないな。
この世界に雪はない。
「母さん、行って来る」
母さんではないが、そう呼ぶと少しばかり心が温かい気がした。蒼桐は声を掛けると玄関の監視装置の前に立つ。父が研究者なので、こういった国家の監視は免れない。しかし、もう慣れてしまった。
外に出ると、完璧に月齢を計算された月が昇っていた。AI様様で季節も、月齢も、ヒューマンに合わせてシステムが完璧に管理している。
無くなったのは「typhoon」「雷」「黄砂」だ。地下の天候規定でこの三つは厳命で禁忌とされている。typhoonタイフーンというのは、雨と風。これが地下で起きると逃げ場がなくなる。大雨も抑制されるようになった。雷は地下で電気を発生させると、地上のテラフォーミングに遅れを取るからという理由。その抑制システムを「HARP」と呼ぶらしい。全ては大国phantomが管理しているというのだから、あのエリアの巨大さも分かるというものだ。
「さむ」
北風がご丁寧に吹いて来た。季節はこれでも春だが、春を知らせるものがないので、何となくの「冷え」を感じるだけだ。
そこに、チラ、と雪のような何かが舞い散った。
――雪? いや、有り得ないな。
AIは雪や雨が嫌いなので、そうそう降らせない。rubyには一部「雪のエリア」があるが、父は「行くものじゃない」としかめっつらをしていた。
蒼桐は不信に思いつつ、足を進めた。少し行けばヒューマノイドの食料店がある。そこには僅かなヒューマンの食事もあった。ヒューマンからヒューマノイドになった合間の人々のための流動化学合成品。AIの活力はエナジードリンクだが、ヒューマノイドはオイルを加工したものを食べる。生物などは食べられない。
飛鳥の好きなAIクレープはエナジードリンクのカタチを変えたものだ。まず、地下に温かい食事はない。
この時代でヒューマンがおいしく食べられる「簡単らあめん」を買い込んで帰路についたところで、またチラチラ、と雪が舞い降りた。
しかし、夜空は晴れている。風花、だ。
*****
「ただいまー」
声を掛けるとぬっと父が出て来た。研究者の割にはガタイが大きいので、いつも驚く。「仕事が変わったんでね」と父は軽く答えて停止したままの母親AIの前に立つ。
「こいつも、駄目だな。AI回路がショートした。もともと旧タイプだから、寿命か経年劣化。業者に回収に来てもらうか」
告げると、腕にはめ込んだ内蔵型腕時計PCを起動させる。すぐに母親AIは粒子分解で消えた。
何も言えずに立っている蒼桐に、父は「また新しいのが来る」と言い残して部屋を出て行った。しばらくして認証済の音に……
(あ!)
うっかりしていた。お湯を入れたままの「らあめん」を置いて、蒼桐は部屋に駆け付けたが遅かった。
父は研究者だ。宇宙空間と化した部屋を見れば何が起こったかわかるだろう。
「颯……これはどういうことだ」
父が振り返った。ところで、チカ、と窓の向こうが一瞬光った。
「危ない!」
背中に庇われた向こうには粉塵と黒煙。父の肉体は焦げてはいたが、灰色のパーツが見えている。そう、父はヒューマノイドだ。望んでヒューマノイドになって、研究者の地位を得たのだ。蒼桐は咄嗟で父の背中を見てしまった。
大きな数字が書かれている。……かつては誰の肉体だったのだろう? ヒューマノイドになるとは、フランケンシュタインのようなものかも知れない。
「父さん!」
部屋の半分はマイナス宇宙が再び出現していた。粉塵はよく見ると、小さなナノポッドだった。集まって、それは手になった。手のひらには「Y***」と名前がある。それはじりじりと蒼桐と父をマイナス宇宙に追いやろうと窓を飛び越えて進みはじめた。物音一つ、電磁波一つ立てない。
静寂。
――の後。
粉塵爆発であったと気がつく頃には、父の姿もまた、書き消えていた。
「え?……父さん……?」
マイナス宇宙は蠢いて、ぽっかり口を開けたままだ。あのチラチラは雪ではなかった。つけた蒼桐がこの部屋に来て、撒き散らすのも計算済みだった。
燃えない焔。燃え上がらない煙。全てはホログラムだが、出て来た手はAIだった。
父はマイナス宇宙に堕ちてはいない。
量子分解だ……。AIは鉄くずのようにヒューマンとヒューマノイドを分解する。そうしてその量子は吸い取られ、誰かの遊びか、それとも地下を支える電子発生器に放り込まれる。
犯罪者やかつてのヒューマンは分解されて元素に戻されたというが、定かではない。地下にもたくさんのヒューマンがいた時代もあったそうだ。
「次は、俺か……飛鳥……」
手のひらのパッチが熱い。緊急呼び出しのマークがうっすらと血のように浮かび上がった。球体文字のRだ。
よろよろと出て、廊下に設置してある政府連絡機に手を翳す。
『貴方の偉大なる父、ヒューマノイドナンバー00000148にお悔やみを。《政府統合基幹国民ヒューマノイド管理局 ruby》』
『此度の不幸に際し、お悔やみ申し上げます。後程お見舞いポイントと次の生体を送付します。遺品回収は政府の遺品回収センターよりのご連絡をお待ちください《国家遺品回収センター》』
『まもなく、新しいヒューマノイドナンバー00468976が到着します。楽しき家族生活を《世界AI家族教会AI作成 ヒューマノイド派遣会社OCC》』
思い切り拳を廊下の壁に叩きつけた。政府連絡機を壊すことはできない。ここではヒューマノイドは転換時の番号で管理される。ヒューマンは生体番号だ。つまり、父は148番目のヒューマノイドだったということになる。AIは感情が嫌いだから、こういう消去をすぐに行うだろう。
涙を流す暇もなく、玄関のチャイムがなった。開ける気にはならない。
――何体目かの、父と母が微笑んでいるのだ。
それは誰か分からないパーツから組み上げられた自分の「父と母」の概念でしかなかった。
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