013: 仇花の屋敷
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レーセネの片隅にある幽玄な屋敷でのこと。その広い日本間に男がどっかり胡坐をかいて座っていた。その髪は錆びのような褐色で、狼のような耳が生えている。
それがぴくりと動いた。同時に、小さな黒い影が縁側へ続く障子にふっと浮かび上がる。
「マガミさん、失礼します」
それはシッコクだった。静かに入ってきた彼は、男を目の前にして膝を付き頭を垂れた。
「ご報告が」
「その様子じゃあ、失敗したみてえだな」
マガミと呼ばれたその男は、低く凄みのある声でシッコクの言葉を遮った。シッコクは思わず首をすくめたが、臆することなく本題を口にした。
「連中の同行の中に、カナギの姿がありました」
言い終わったシッコクがちらりと様子を伺うと、マガミは薄く笑っていた。
「なるほどな。腑抜けが敵になったか」
「はい。ですので勝ち目がないと判断し――」
「<風斬>」
マガミの<風斬>。シッコクは背中に冷や汗が流れるのを感じた。
切り裂かれた空気が衝撃波となって天井板を破壊し、木片に加えて瓦までもがシッコクの元へ飛んできた。
言葉を失ったシッコクは頭を上げることすらできず、ただ般若面の下で顔を強張らせた。
「どうして野良猫が入り込んできたのかと思ったが、そういうことか」
マガミが口角を上げてそう言うと、空からひょうひょうとした声が響いてきた。
「バレてしもたか。流石やな。わんころらしくよう鼻が利く」
息を詰めるシッコクの目の前に身軽な体ごなしで降り立ったのは、一人の男だった。その二尾に分かれた結髪は翻り、墨色の猫耳は油断なくあちこちを向いている。
『仇花の宿』の影の協力者であり腕利きの刀匠、センリ。いつもお茶らけた風でいながら、何を考えているのか分からない男だ。
シッコクが携える刀【スイセン】は彼が鍛えたもので、『仇花の宿』内で流通する刀のほとんどを彼が作ったという噂もあった。
そんな彼がなぜ今、『仇花の宿』ギルドマスターであるマガミと反目するのか。シッコクには全く見当がつかなかった。
マガミは動じた様子も見せず、ただセンリを見据えて問いかける。
「センリ。結局裏切んのかよ」
その研がれた刃のような眼光に臆する様子もなく、センリは笑顔のまま口を開いた。
「せやなあ。そういうことになるなあ」
それを聞いたマガミは、ただため息を吐いて刀の切っ先を向けた。
「うっかりてめえを殺す前に、早く消えろ」
「ほんまに。俺を殺してしもたら一大事やで? しっかりしてや」
刃を突き付けられているのに、センリは余裕そうに手をひらひらとさせた。その口調のせいだろうか、彼の語りは全て漫才のように軽々と聞こえる。
「俺はこん街を出て行く。ただそれを伝えに来たんや」
「カナギに付いていくのか?」
「いんや。まあ、そうしたいのは山々やけど」
そこでセンリはシッコクを振り返った。シッコクは彼の、にこやかなようでいて底が見えない糸目が、いつになく恐ろしく思われた。
まさか、シッコクがカナギを狙いに行くのを咎めているのだろうか。
『ゆきみの館』の発明品を奪う計画について、センリは異議を唱えていなかった。
しかしカナギが向こうに回ったとなれば、彼も立場が変わるだろう。
シッコクは考えを巡らせながら、手を強く握りしめた。
「そうか。勝手にしやがれ」
マガミが視線を鋭くする。
「言われんでも俺は勝手にするで」
振り返ったセンリはいつも通り軽薄な声だった。
「これで言わんといけんことは全部伝えたな。そろそろお暇させてもらうわ。シッコクも、邪魔してすまんな」
「……いえ。僕のことは、どうぞお気になさらず」
まだ状況を飲み込めないシッコクは、淡々とそう返すのが精いっぱいだった。
堂々と障子を開け夜の庭へ消えていくセンリを見送り、マガミはまた元のようにどっかりと座って言った。
「シッコク、カナギの対策はお前に任せる。力及ばずと思うな搦め手でもなんでも使え。俺はセンリの方を探る」
「承知いたしました。このシッコク、命を懸けてでも、必ずや任務を遂行いたします」
シッコクは深々頭を下げてそう言った。懸命が文字通りのものになっているとしても、命を惜しむ気持ちはシッコクの中に一片もなかった。
シッコクの脳裏に過ぎるのは、夜闇の中の藤のようなカナギの姿だ。長い黒髪を風になびかせ、暗い木陰に立っている姿。倒れ伏すシッコクに一歩一歩近づき、その黒い短刀を首に当てる。
あのときの高揚をもう一度味わいたかった。それなのに……。
『それでも、僕の師匠だ』
なぜお前がその刀を持つ。なぜお前が、あの人を師匠と呼ぶ。
なぜあの人は姿を消した……。
障子を通り縁側をしばらく歩くと、人影が柱に寄りかかってシッコクを待っていた。
黒衣をこれみよがしに羽織り、いつも薄笑いを欠かさない痩せぎすの男。その名をヤマトというこの裏切り者を、シッコクはあまり気に入っていなかった。
「カナギの対策は僕に任されました」
「そうなると思っていましたよ。策は既に練ってあります」
その自信に満ちた言葉に、シッコクは般若面を通してヤマトの顔をまじまじと見た。常に空威張りをしているだけあって、頭の切れは悪くない。問題は、その塗りたくった虚勢を本物だと勘違いしてそうな点だ。
ヤマトはシッコクを伴い、今となってはヤマトの根城となっている地下室まで歩いた。一般のメンバーには秘されたこの部屋にはすっかり血の匂いが篭り、シッコクはここを訪れる度に般若面をガスマスクに改造したいと思うのだった。
「こちらをご覧ください。私の新しい発明品です! シッコクさんにぜひ、使っていただきたいと思いまして」
ヤマトがそう示した机の上には、真っ黒な手甲が無造作に置かれていた。表面は鱗が並んでいるようにざらつき、触ってみるとほのかに温かかった。裏地は溶岩の断面のように赤く、それでシッコクはこの机に広がる茶色い染みの正体に思い当たった。
「ヤマトさん。あなた、自分のモンスターを手にかけたんですか」
般若面から発せられる声が震えていないことを祈った。
ヤマトは眼鏡の奥の目を丸くして、意外そうに言う。
「そんな小さなことが気になるんですか?」
「……いえ、僕の勘が当たっているかどうか、確認したかっただけですよ」
シッコクはヤマトの作った手甲をそっと撫でた。腕に着けてみると、その温かさは、まるで誰かに手を掴まれているかのようだった。
無残に人を切り捨てるカナギはシッコクの憧れだった。自分の腕を掴み、開けた世界へ連れ出してくれたのが彼であったのなら……。
シッコクは面の下の薄紫の瞳を揺らして、ただ手甲を見つめていた。
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