005: 短刀と人骨
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「俺、そんな使い方させるためにお前に教えたわけじゃないんだけど」
カナギは短刀を取り上げた。浅い息を繰り返すイヅルは、彼の冷たい表情をぼんやりと見上げるしかできなかった。
「自分を軽々しく傷つけるな。自分に軽々しく刃を向けるな。ゲームだからって侮るなよ。行動の積み重ねが人の思考を形作るんだ」
ぼんやりと霞む視界でイヅルはそっとカナギを仰ぎ見た。珍しく冷たいカナギの視線は血の付いた刀を透かして、イヅルの瞳を真っ向から射抜いていた。
「お前の思考の中に、自分を傷つける選択肢を作るな」
カナギだけだった。イヅルの無茶を気にかけ、期待を押し付けることもなく、ただその成長を見守ろうとしてくれた人は。
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イヅルは即座に覚悟した。迷っている暇はなかった。
あのとき、カナギの言葉を聞いたときから封じていた選択肢。今ここには、それ以外の道はない。
「”あこがれいづる魂よ 我が血に映る影となれ“」
握りしめた短刀。それを腹に突き差す。瞬間、身体中に広がるのは、血の温もりと致死的な痛み。
イヅルは膝をついた。しかし歯を食いしばって腹中の刃を滑らせた。何かが詰まった袋を切り開く感覚。
それは心だ。心を斬っているのだ。しかしそれも、イヅルにとってはどうでもいいことだった。
身体が震えた。いや、この空間自体が震えていた。
最後の力を振り絞ってイヅルは叫ぶ。
「後は頼んだ、ダイアナ……!」
声に押し出されるようにして、ますます血が腹から溢れた。朦朧としたイヅルは血だまりに倒れ込んでしまう。
そんなイヅルを守る檻のように、黒々とした骨が床から勢いよく生え出た。
『あは、あはははは!』
可憐な少女の笑い声が響く。それに導かれるようにして、骨が次々組み上がっていく。
やがて姿を見せたのは、どす黒い人骨だった。上半身のみを床の上に露出し、肋骨の中にイヅルを囲っている。
頭蓋骨からは黒い霧がなびき、花嫁のベールのようだ。窪んだ眼窩には青白い魂が瞳のように灯っている。
『ようやくワタクシの出番ですのね! イヅル様!』
ダイアナ。イヅルの所有するアンデッドの中で最も強く、最も残酷な殺戮者。
その強力さ故に召喚には大きな代償が伴う。気絶するほどの痛みと流血が。
突如現れた黒い怪物に、白い迷宮の主は斧を握りしめて構えた。その臆病な仕草にダイアナは顎骨を鳴らす。
『せっかくのお相手がこのような殿方なんてつまらないですわ!』
振り下ろされる斧をダイアナは片腕で受け止めた。そのままミノタウロスごと斧を持ち上げ床に叩きつける。そしてまた高笑いをし、玩具を扱う子供のように、その牛をあちこちへ振り回した。
『なかなか壊れないところは気に入りましたわ。でも所詮は人形ですわね。これが天使だなんて、嘘じゃありませんこと?』
ダイアナは手中のミノタウロスをじっくり見つめた。握りしめられるミノタウロスの身体は、みちみちと不穏な音を立てた。
ふとダイアナが下に顔を向けると、回復魔法の光を辺りへ投げかけながら、ライラがダイアナの肋骨の中に入り込んでいた。
そして血をたどってイヅルの身体に触れた、ライラは泣き笑いのような顔になった。
「良かった、イヅルさん……そこにいたんですね」
ダイアナは手の中の牛に視線を戻し、空いたもう一方の腕も差し伸ばした。
『興が削がれました。早く終わらせましょう』
ダイアナはミノタウロスの身体と頭を持って引きちぎった。そして放り投げられたミノタウロスは、粒子となってさらさらと消えていった。
『さあ、血が止まる前にイヅル様を―』
ダイアナが言い終わる前に、その喉骨が寸断される。
「そうはさせない」
刃を走らせたのはカナギだった。目を開けきっていないのに、的確な一撃だった。
「冗談ではないですか。ふふふ」
手を口元によせて笑い、巨大な人骨は煙のように霧散していった。収まるべき場所を失った青白い火の玉が空中で燃えているのを、カナギはまだ鋭い目で見据えていた。
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―
イヅルがその目をゆっくりと開けると、泣きそうな顔をしたライラと目が合った。
「イヅルさん! 大丈夫ですか!?」
「……僕は、大丈夫です」
その答えを聞いて、ライラは一気に顔をほころばせる。
「良かった……! 私もカナギさんも無事です。イヅルさんのおかげです」
イヅルは微笑を返したが腹部にはまだ痛みが残っていた。ぎこちない動きでようやく身を起こすと、そこにカナギがやってくる。
「お、イヅル。起きたか」
彼は片膝立ちになり、真っすぐイヅルの顔を見つめて言った。
「お前のおかげで助かった。ありがとう」
彼はダイアナのことを快く思っていない。だからこそ、彼女の力に頼らざるを得なくなってしまったことが悔やまれるのだろう。
「いいえ。僕は別に、慣れていますから」
そう返すとカナギは悲しそうに笑って立ち上がった。
「向こうに魔法陣っぽいのがあった。たぶん外へ出る転移陣だと思う」
カナギがそう示した先の壁には、確かに転移魔法陣が出現していた。そしてイヅルたちの方を振り返った彼は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「とりあえず、レーセネに寄ってゆっくり休むか」
「いいですね。私も……顔を見せたい方がいますので」
含みのある様子でそう言ったライラは、すぐに立ち上がってイヅルに手を差し伸べた。
「イヅルさん。立てますか?」
「あ、ありがとうございます……」
その会話にカナギは肩をすくめる。
「一緒にボスを倒した仲間なんだし、そろそろ敬語を止めたらどうだ?」
「あ、たしかに……きっとイヅルさん、私と年近いですものね」
「ええ!?」
イヅルはライラの言葉に思わず大きな声を出した。珍しく表情豊かなイヅルにライラは苦笑して言う。
「この体はわざと幼くしてあるんです。実際はイヅルさんと同じぐらいの背丈ですよ」
「す、すみません。てっきり年下かと……」
イヅルは小学生にしても小さいライラの身体を見下ろした。わざとだとしても、あえて不便な身体にする理由が分からなかった。
ライラが照れたように笑って初めて、イヅルは自分が彼女を見すぎていたことに気づいた。つられたように赤くなるイヅルにカナギがまた肩をすくめた。
「これからよろしくね。イヅル」
「あ、えっと……よろしく、ライラ」
そう言葉を交わしぎゅっと握手をしたものの、イヅルは気恥ずかしさの余りすぐに歩き出した。
「は、早く行きましょう!」
その後ろをライラとカナギのくすくす笑いが追いかけてくる。イヅルは彼らに追い立てられるように、ますます早く歩いた。
転移陣の壁の前に着き、イヅルはすぐさまその魔法陣に手をかざす。
眠りに落ちたような感覚がした。次に目を見開いたときには、暗い空に圧し掛かられたような、鬱々とした草原の景色が広がっていた。
後ろには白く輝く神殿があり、どうやら入り口まで転送されたらしいとイヅルは納得した。
ふいに何かが草を踏む音がした。イヅルは慌てて辺りを見渡すが、不審な影は見えなかった。
草原のモンスターだろうか? だとしたら姿が見えるはずだ。
ではプレイヤーだろうか? それならばPKエリアではないこの草原で戦闘になることはないだろう。
どちらであっても心配する必要はない。
それでもイヅルの心は晴れなかった。何か嫌な予感がした。
「置いていくなよ」
拗ねたように言いながらカナギが転移されてきた。直後、ライラも姿を現す。
先ほどの音は気のせいだったのだろうか。もし何かがいれば、ライラはともかく、カナギが気づかないはずがない。
「それでは出発しましょう。レーセネへ」
ライラはそう言って杖に光を灯した。イヅルは不審な物音を気にかけながらも、草原の先に見えるきらびやかな都への旅路に、一歩踏み出した。
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