第5話 傍観する悪魔
次元の狭間にある、超常の力によって作られた“生活空間”にて。大悪魔ルシエルが、世界を渡る“散歩”から帰ってきた。
「はぁー、最近は食べ応えのある餌が少なくて困るわねー、やっぱり私みたいな大悪魔には、大悪魔らしい高品質の負の感情が相応しいってものなのよ」
やれやれとソファに身を沈めてだらけながら、虚空より取り出したるワインを一口飲む。
これはあくまで、“現世”にある飲料を魔力によって再現しただけの偽物だ。
味や香りは本物と変わらないが、自身の力を使って生成している以上飲んでも栄養にはならず、むしろやればやるほど力が失われていくという、完全な無駄である。
しかしルシエルとしては、その無駄にこそ意味があった。
生存するだけでギリギリの下級悪魔とは違い、この程度の物質生成によって失われる力など、彼女の膨大な力からすれば微々たるもの。百杯だろうが千杯だろうが、好きなだけ出しても全く懐は痛まない。
自分にはそれほどの力があるのだという、絶対の自信と自負。それを直接味わう手段として、こうした嗜好品を嗜むのは最高の愉悦なのだ。
もっとも、いくら膨大な力があろうと消費するばかりではいずれ尽きてしまうので、悪魔らしい“食事”も欠かすことは出来ないが。
「そういえば、前に異世界転生させた魂、今はどうなってるかしら?」
そこでふと思い出したのは、ルシエルが転生させたとある魂のこと。
善良な心をへし折って絶望の淵に叩き落とし、その落差を愉しみながら魂ごと負の感情を喰らってやろうと企んだ一件である。
「時間軸としては三年くらい経ってるわよね? すぐに殺されてたら面白くないし、いい感じに落ち延びて憎しみを募らせてると最高よね〜」
ウキウキ気分で世界を覗き見る“窓”を開き、転生させた魂の行方を“契約”の繋がりから辿ってみると……。
ちょうど、獣人の村で土地神として盛大に歓迎されているところだった。
「……は?」
流石に意味が分からず、ルシエルは一度窓を閉じる。
疲れてるのかな? と目頭をよく揉んでマッサージし、今一度窓を開き直して……やはり獣人の村で崇められている光景を目の当たりにし、ルシエルは頬を引き攣らせた。
「何をどうしたらこうなるわけ?」
悪魔の力で過去を遡り、映像としてこれまでの経緯を把握していく。
その結果、ルシエルは先ほどと全く同じ結論に至る。何をどうしたらこうなるのだ? と。
「この母親はバカなの? たかが一回笑いかけられただけで化け物の子を育てるって正気じゃないわよ!?」
悪魔に正気を疑われるという稀有な経験をしてしまったリリスだが、実のところその指摘はあながち間違いでもない。
何せ、彼女はミリアをお腹に宿した時点で既に異端認定され、人類社会で生きる術を失っていたも同然だったのだ。
それでも逃げ延びてミリアを産み落としたのは、子供を殺してしまえば異端認定を解かれる可能性もあると、一縷の望みに懸けてコーラスが彼女を連れ出したからに過ぎない。
リリス自身は、その時ほぼ生きる希望を失っており……正常な判断力など、とっくに喪失していたと言える。
その上で、ミリア相手に僅かながらでも母性を感じたことで、それが新たな生きる理由になったのだ。そうなるのもある意味必然だった。
「いや、だとしてもよ、仮に母親がコイツを生かそうとしたところで、男の方はなんでそれに律儀に付き合ってるの!? アンタ別に恋人でも何でもないでしょうが!!」
コーラスに関しては、本当に特に大それた理由はない。単にリリスに惚れた弱みである。
惚れた女のために文字通り全てを捨ててついて来ておいて、未だに告白の一つも出来ていない特大のバカ、それがコーラスという男だった。
「そして極めつけは……何よモケモケって、知らないわよそんなふざけた名前のマイナー神のことなんて!!」
悪魔と対を為す神は、人の信仰によって生まれる。
たとえ信じる者が少なくとも、真摯に祈る者が一人でもいればそこに神は誕生する……が、少なければ当然相応の力しかないので、そもそも同じ神ですら存在を認知することが難しい。
そんな神と、ルミエルが転生させた魔物の子が似たような見た目だなどと、いくら悪魔でも予想出来るはずがなかった。
いや、そこまで知っていたとしても……誰が、ミリアのような子供を自身の崇める神と勘違いすると思うのか。
獣人達がここまで思い込みの激しい性格をしているなど、想像すら出来なかった。
「ま、まあ……こんなふざけた奇跡もこれまでよ」
ひとしきり叫んだ後で、ルミエルは冷静さを取り戻す。
ここまでは、あり得ないほどの奇跡と偶然が重なって、それなりに平穏な暮らしを送っているようだが……こんな状況も長くは続かないだろう。
モケモケなる神とミリアが別の存在だと分かれば獣人達も手のひらを返すだろうし、そうなるのは決して遠い未来ではない。
何せ……獣人達の村は今、存亡の危機に立たされているのだから。
「森の奥地で大量発生した魔物が生息域を広げて、この村を今まさに飲み込もうとしている。これを解決するための切り札として、偽物の神に縋ったんでしょうけど……いくら魔物の血を引いてるからって、たかが三歳の子供に
信じて受け入れた神が、魔物災害の圧力に屈し逃げ出したり、敗北するような事態になれば、獣人達が感じた希望は容易に失望へと変わるだろう。
その巨大な負の感情が憎しみとなり、ミリアへとぶつけられた時……その輝かしい心もまた、ドス黒い絶望色に染まるはずだ。
「考えてみれば、ある程度この世界で生活して貰ってから死んでくれた方が絶望も大きくなるでしょうし、結果オーライってやつね。……そうだ、せっかくだから少し後押ししてやりますか」
ご機嫌そうに鼻歌など口ずさみながら、ルシエルは悪魔の力でほんの僅かに因果を操作する。
いずれやって来る魔物達の氾濫。それが、確実に獣人達を……ミリアへと襲い掛かるように。
「これでよし。あはははは! 全く、この子が死んで、契約に従ってここに戻って来る日が今から楽しみね」
そんな彼女の様子を、少女の形をした淡い光がじっと見つめていたことに、ルシエルは最後まで気付くことはなかった。
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