第12回 なにも起こらなかった
春。
なにも起こらなかった。
SNSを見ているかぎり、しあわせ家族はかわりばえのしない投稿でしあわせアピールをしつづけていた。家のまわりや屋内で不気味な怪生物を見かけてはいなかった。ペット(七歳♂のパグ。我が家のお笑い担当)がやけに神経質になってもいなかった。子どもがおびえて部屋に閉じこもることも、お父さんが入浴中に原因不明の大けがで何針も縫うはめになったり、おじいちゃん――裏切り者その人――が眠っているとき、顔のやわらかい部分を食いちぎられて、失血性ショックで病院に搬送されることもなかった。
そんなはずがなかった。克輝くんは納得しなかった。激昂したような高速の文字入力でそんなわけあるか そんなけあるか そんなわるか と誤字もかまわず怒りをぶちまけた。
克輝くんの機嫌が悪くなるいっぽうなので、香月もいわれたとおりにするしかなかった。何度も夜の公園の、池のわきの芝生に〈ゴセシケ〉を運んでは、遠くの街灯の明かりをたよりにキャリーバッグからビニール袋を取り出して、ひとつずつナイフで切り裂いて放置してきた。だれかに見とがめられないうちに立ち去らなければならなかったから、潰れたビニール袋のなかで〈ゴセシケ〉がもがいているのは見ていても、ぶじに脱出するのまではたしかめなかった。ぶじに脱出したとしても、野良猫につかまったり、道路を横切るときに車に轢かれてしまったりしてもおかしくなかった。
なら でかいならいいんだ
いつになく克輝くんは短絡的だった。
単純に骨格を大きくしたり筋肉量を増やすんじゃうまくいかない。それにあんまり大きいのはバイオプリンタが――限界は小柄な小型犬くらい――プリントアウトできない。
だったら小さくプリントアウトして大きく成長させる? そんな機能を、どうやれば組みこめるのか、香月には想像もつかない。あの機嫌の悪さからいって、克輝くんに考えがあるとも思えない。
それに、四月になって年度が変われば、コミュニティも新しい活動をはじめる。香月もワークグループに誘われていた。信じられなかった。さいしょにメールを見たときはぜったいからかわれているんだとこわくなって、ウィルスに感染でもしたみたいにあわててパソコンをシャットダウンしてしまった。
……それから、思い切って返信してみた。相手は国立大学の准教授で、ネットで検索するかぎり信頼してもだいじょうぶそうだった。なにより彼女の著書を何冊も、香月はこれまで電子書籍で読んでいた。何度かやりとりするうちに、相手が冗談をいっているわけじゃないと、やっと思えるようになった。
さいごに香月はこう訊いた。
友だちもいっしょでいいですか?
克輝くんのことは、ことあるごとにコミュニティで話題にしていた。自慢の友だちだった。いっしょに研究に参加できれば、いつか克輝くんの新しい身体を再生することだってできるかもしれないとまで思っていた。倫理の問題はさておき。あんなことになっている人間をまのあたりにしてしまったら……ましてやそれが友だちだったら、倫理なんてただの裏切り者だとしか思えない。
返事はあっさりしたものだった。
いいよ
からかわれているんじゃなかった。これはほんとうにほんとうの事実だった。
克輝くんの機嫌が持ちなおしたら話してみるつもりだった。きょうがだめならあしたでも。自慢の友だちを、自慢のコミュニティに紹介するのだ、だいじょうぶ、説得できる自信はあった。
克輝くんは機嫌が悪いままだった。解決方法は見つからなかった。どうすればいいか香月には見当もつかなかった。入力ミスだらけのMSゴシックが、ふざこんなとか、しねやとか、てぶとか、ちちれふとめんとか、とんこっとか、子どものころから何万回、何千万回も聞かされたいつもの悪口をやつぎばやに並べてはスクロールするのを見ているしかなかった。きっと本気じゃなかった。どうせただの八つ当たりだった。それでも……小学校のときと同じで、すべての悪口が、刃物のように香月を深く傷つけた。いい返すなんてできなかった。マイクが重く感じられて、持っているのもつらかった。
なんでこんなことになっちゃったのかさっぱりわからなかった。こんなのぜんぶいやだった。しあわせ家族になんかかかわらなければよかった。自分がここでなにをしているのか……ほんとうはなにをしたかったのかもわからなくなってしまいそうで、こわくてたまらなかった。
とっさにディスプレイから顔をそらすと、ベッドのなかの克輝くんの顔が目に入った。まるでしわくちゃのドライフルーツだった。グロテスクだった。なんの表情もないくせに目玉だけがせわしなく動いていた。
なんかいえ 時かんないんたよ
時間がないわけがなかった、とりわけ克輝くんには。こんなまともに見れないくらい不気味なドライフルーツ人間なんかには。
そこで気づいた、この病室でいっしょに〈ゴセシケ〉を進化wさせ、うまくできればいっしょに笑い、失敗すればいっしょに悔しがっていたあいだ、香月が見ていたのは壁の大型ディスプレイに並ぶMSゴシックだけだった。克輝くんなんて……あんな気持ち悪い顔なんて、ぜったい見たくなかったから。
裏切り者だった。香月こそが、克輝くんのいちばんの裏切り者にほかならなかった。
自慢の友だちなんてとんでもなかった。
まだあの学校のそばの坂道にいて、美波ちゃんの視線を気にしながらはやしたてつづけているような気がした。
病室を飛び出したのもおぼえていなかった。大声で叫んでいるのも自覚がなかった。泣いているのも……視界がぼやけて、まともにまわりを見れないくらいなのもわかっていなかった。
つづく。
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