第11回 香月は確信した、生きのびたんだと

 つまり――意外なことでもなんでもなかったのに、どうして香月はそこだけ見落としていたのか――克輝くんはぜんぜん忘れていなかった。

 とうぜんのことだった、克輝くんいがいの全員にとっては二十年もまえの不運な交通事故も、克輝くんにとってはついこのあいだのことだった。しかもそれであらゆるものを奪われた。奇跡的に意識が戻ったとか、それからわずか一年ちょっとで〈マーク・なんとか〉とか〈G・なんとか〉とか、だれも思いつかないような生命体を造りだしたのなんてどうでもいい。事故まえだったらありえないくらい、両親がどんなわがままでも聞いてくれるのだって、なんの意味もない。ぜんぶ台無しにされてしまったのだ、あの前方不注意のトラックが、銀色に輝く傲慢なほど巨大なバンパーで、克輝くんの小さな身体を何十メートルもぶっ飛ばすことで、あとかたもなく、取り返しがつかないほど徹底的に。

 香月はそうじゃなかった。香月は生きのびることができた……事故の翌日からなにもかもが完全に変わった、まるで人生そのものが、まったくべつのものに置き換えられでもしたみたいだった。

 依然として無視されてはいても、その無視には……なんだろう? 畏怖? みたいな雰囲気があった。まるで香月が、学校の怪談に登場するとびきりやばくておそろしいものにでもなったみたいだった。克輝くんのおかげだった。香月はほかのみんなといっしょにその場にいただけだったのに、だれもが香月を、空高く克輝くんが跳ね飛ばされた衝撃的な光景と結びつけて考えていた。

 だれも香月のことをまともに見なくなった。だれも声をかけなくなった。香月はクラスに存在しないことになった。それは問題じゃなかった。だれも香月のことを話さなくなった。香月にかかわろうとしなくなった。重要なのはそこだった。

 小学校を卒業するまでそれはつづいた。中学になっても変わらなかった。高校になって、電車通学することになって、やっと香月は確信した、逃げ切った、生きのびたんだと。

 克輝くんのおかげだった。

 だからしあわせ家族の家のまえに車を停めて、スマホで医療コミュニティのセミナーを聴講しながら日が暮れるのを待つのなんてたいしたことじゃなかった。

 空が暗くなってくると、助手席に立てかけているキャリーバッグのふたを開いた。なかに入っているのはまるで装填されるのを待っている、ビニール袋でできた五発の銃弾だった。どれもペットショップで熱帯魚を買ったときみたいに水と空気でいっぱいに膨らましているので、乾燥することも窒息死する心配もない。保冷剤で低温にたもっているからなかで暴れることもない。だれかさんがいっていたとおり、白っぽくて、ぶよぶよで、目がすごくおっきくて、気持ち悪い、牙の生えたカエルだった。とはいえ、筋肉量も敏捷さもあれとはくらべものにならない。目玉はふたつで距離を正確に認識できるし、牙は鋭くて長く、顎の骨は厚さが七ミリもある。〈G9〉だった。

 もういちどしあわせ家族の家に目を向けた。洗いたてのランドクルーザーが停まっているだけで家のまえにはだれもいなかった。いまはあたたかく明るい家のなかで、しあわせ家族らしくなごやかに、日曜夜の国民的アニメでも楽しんでいるにちがいなかった。

 さらに暗くなり、人通りがとだえるのにそんなに待つ必要はなかった。気がつくとセミナーの内容がまったく頭に入っていなかった。ため息をついてスマホをポケットに押しこむと、香月はキャリーバッグの取っ手をつかんで軽自動車のドアを押し開けた。


つづく。

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