第9回 いや、進化wwだった

 反射的にドアに目を向けたのは、いまにも江藤さんが、激昂した小学生みたいに片手の袖口で目もとの涙を力まかせにぬぐいながら、ドアを突き破るいきおいで病室に飛びこんでくると確信したからだった。

 江藤さんはあらわれなかった。香月が病室にいるあいだは香月に優先権がある。検温も採血も(いいたいことがあるならそれをいいにくるのも)、遠慮することになっていた。

 そのあいだもディスプレイにはMSゴシックが並びつづけた。かなりの量だった。それによると克輝くんは、香月がしばらく――コミュニティ関係が忙しくて――顔を見せないあいだに、なんの相談もなくそれまでの〈マーク・なんとか〉の体系を変えたことを謝罪していた。それは、克輝くんの言葉をかりるなら、〈ま、いってみりゃブレイクスルー〉があったからだった。興奮しているのは文字量であきらかだった。しかも冗談めかしたwを入れるよゆうもないときている。

 なぜなら〈G〉シリーズには骨格があった。あらかじめ3Dプリンタで出力した樹脂製の骨格を芯にして、バイオプリンタでまわりの組織を形成した。さらに筋肉でくるんだ漏斗状の顎を実装することで、水上でも捕食できるようになった。

 もちろん、〈マーク・なんとか〉の技術はあますところなく注ぎこまれていた。いや、それもほとんどすべてがバージョンアップされていた。眼球をそなえ、視覚情報と連動して動きまわることができた。神経ネットワークに特定の刺激で特定の動作をするように条件設定し、そのいっぽうで、未経験の刺激には既存の条件を書き換えて対応することもできた。克輝くんにいわせれば本能と学習だった。〈G2〉は本能にしたがって行動し、学習によって行動を変化させることができた。

 まあ 知性ってほどじゃないけどね

 謙遜していた、自分が達成したことを強調するために。

 進化wだった。いや、進化wwだった。

 四日かかったんだ

 これも克輝くんは何度もくりかえした。〈G1〉は一週間かかっても、けっきょく死ぬまで研究室から出ることもできなかった。〈G2〉は首尾よく研究室を脱出し、別棟と病棟をつなぐ三階の渡り廊下も通過して、階段を一段ずつ這い上がり、七階の廊下にたどりついた。

 それにかかった期間が四日だった。

 そして待った……江藤さんがとおりかかるまで。

 あれが〈G2〉だった、江藤さんに飛びかかった、おっきい目の、ぶよぶよで、なんか気持ちの悪い、牙の生えたカエルみたいな生き物が。

 ディスプレイにはナース服の江藤さんの写真が表示されていた。病院に登録されている人事情報だった。克輝くんはさらにいくつかの写真を表示した。プライベートの江藤さんだった。どこかの観光地のランドマークを背景に、カメラにわざとらしく笑いかけていた。気取った手つきでワイングラスを持って、若い男と下品に笑い転げていた。大盛りのラーメンをまえに、大げさに両目を見開いていた。これと対になっているのが、完食したどんぶりをこっちに向ける、押しつけがましいしたり顔だった。どの江藤さんも楽しそうだった。どの江藤さんも服装や姿勢で胸の大きさを強調し、世界征服したばかりの独裁者みたいに勝ち誇っていた(もっとも気に障ったのがデカ盛りラーメンの、わざとらしいびっくり顔だった、たとえそれが、香月へのあてつけのわけがないとわかってはいても)。休日がこんなに充実しているなら、看護師の激務だってきっとへっちゃらなんだろう。病院長の長男の、ぜったいにふつうの仕事じゃないたのみごとをきいてあげるのもふくめて。

「これが? なに?」

 しかし克輝くんは、香月の不機嫌な顔つきなんて気づいてもいなかった。

 これをさ 組みこんだんだよ G2の神経ネットワークに

 そのためにも新しいプラグインを開発する必要があった。香月が自宅で、母親の刺し貫くような視線は無視して(いつものことだった)、コミュニティと情報交換し、学会のパネルディスカッションを聴講し、新しいモデルの構築を手伝い、コミュニティに克輝くんを紹介したらきっとすごいことになるなんて夢想したりしているあいだ、克輝くんは睡眠時間を削って、目線の動きだけで膨大な量のコードを入力し、いくつもの、ま、いってみりゃブレークスルーってやつwをなしとげ、そのあいまに江藤さんのいろんな顔写真を大量に収集し、〈G〉シリーズに、この顔の相手に飛びつくように条件設定していた。

 江藤さんの充血した目の鋭さを、やっと香月は理解できた気がした。「なんで?」

 ちょくせつ答えてはもらえなかった。

 つぎはもっと航続距離を長くする

〈G3〉の話だった、それにはさらに強靱で複雑な体構造をモデリングしなくちゃならず、そのためにはプラグインもぜんぶ組みなおすことになるし、骨格もハニカム構造で強化しなくちゃならない。なにより新しい神経ネットワークのレイヤーを追加して(ま、簡易版の大脳皮質、と克輝くんはさらっといってのけた)、複数の個体がおたがいを認識し、連携して動きまわれるようにする。

 こんどはちょっと大がかりだからさ おまえももっと手伝ってもらわないと

「うん。わかった」

 そう答えながら、ぜんぜんわかっていなかった。

 あんないたずらを何度もされたら(それもこんどは群れで追いかけられるとなれば)、こんどこそ激怒した江藤さんが、香月がいてもおかまいなしに病室に怒鳴りこんできて、さしもの病院長も、克輝くんのわがままを聞いてくれなくなるんじゃないか。バイオCADを取り上げられる危険をほのめかしてみても、克輝くんの答えはこれだけだった。

 w

 ディスプレイにはまたべつの人物の写真が――じつのところ家族の写真が――並んでいた。どこかで見たような観光地で、スマホの画角に家族が入るようにやけに傾いていたり、どこにでもありそうなつまらない公園で子どもとたわむれていたり、家のまえに停めた大型のランドクルーザー(きっと新車だ)のまえで、気取ったポーズで勢ぞろいしたりしていた。香月だったらわざわざ検索してまで見たいとは思わない、しあわせ家族の写真だった。

「だれ?」

 克輝くんはこうくりかえすだけだった。

 w


つづく。

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