第8回 ほんとにカエルだったんです、三十センチくらいの

 秋。

 七階のエレベータを降りて角を曲がると、ナースセンターの手前の通路に看護師が何人もあつまって、押し殺した大声でなにやら議論していた。

 とおりがかりに目を向けてみると(ふだんもどうせ気づかれないので、香月は声をかけず、ちょっと足をはやめてとおり過ぎることにしている)、同僚たちに囲まれて江藤さんが泣いていた。克輝くんの病室で、何度か点滴やコンビーンバッグをとりかえているところを見かけたことがある(そういうとき、香月はいつも、彼女が看護師としての用事をかたづけるまで、だれとも目があわないように顔を伏せて病室の外で待っていた)。香月のことをどう思っているかは考えなくてもわかった。二十歳くらいでちょっと童顔のアイドルっぽい顔だち、小柄できゃしゃなわりに胸が大きい。タイプでいえばつねに目を光らせて、どんなことでもすぐ告げ口する美波ちゃんだった。克輝くんの担当のなかでも病室で見かける回数がやけに多い。香月が病室に入ったとき、あわててマイクを窓ぎわに戻すのを見たこともある。たぶん克輝くんのお気に入りで、プリントアウトされた〈ゴセシケ〉を回収して病室の水槽に移すのも、水替えや金網の仕切りの用意も、きっと彼女がやっている。

 その江藤さんが、子どもみたいに泣きじゃくり、しゃくりあげるあいまにこんなことを訴えていた。

「ほんとなんです、ほんとにカエルだったんです、三十センチくらいの、おっきくて白っぽくて、」

 先輩の看護師たちは困惑して顔を見あわせていた。病院のなかにカエルがいた? 外の駐車場や裏の通用口のあたりならまだしも、病棟の七階、患者さんやスタッフがしょっちゅう歩きまわっている通路のまんなかに? それも白っぽくてつややかで、三十センチもある大物が、江藤さんが気づいたとたんに這い寄ってきて……顔めがけて飛びついてきた? ただの見まちがいとしても、ちょっとふつうじゃ考えられない。

 そのとき江藤さんが香月に気づいた。まっ赤に泣きはらした目で香月を見つめた。

「ほんとうに、」

 震える声でくりかえしながら、目は香月からそらそうとしなかった。「ほんとにいたんです。わたしのほうに近づいてきたんです、なんか気味の悪い、なんか目がすごくおっきくて、ぶよぶよで、なんか気持ち悪い、牙の生えた」

 香月を見つめていた。香月はあわてて顔を伏せた。

 べつの看護師が指摘した。

「カエルってさ、歯、ないんだぜ?」

 目もとをぬぐって江藤さんはこう答えるだけだった。「わかりません、」

 そのあいだも目で香月を追っていた。「あたし、ほんとになにもわからないんです」

 ただ友だちを見舞いにきただけで、どうしてあんな目つきでいつまでも見つめられなくちゃならないのか香月には理解できなかった。しかもその友だちは、この病院のオーナーの長男なのに。

 憤然とナースセンターのまえをとおり過ぎ、克輝くんの病室に向かった。

 病室に入ったとたん、いきなり訊かれた。

 どうだったG2

「なに?」

 いいかけて、マイクを使わないとつたわらないことに気づいて窓ぎわに近づいた。マイクを取ったとき(つい、このマイクの先端部分には、江藤さんの唾液がどれくらい付着しているんだろうと考えずにいられなかった)、ディスプレイのまえの水槽に、どのナンバーであれ〈ゴセシケ〉が入れられていないのに気づいた。それどころか水も入ってなかった。ポンプもはずされてわきに置いてあった。完全にからっぽだった。

「なんのこと? わからないよ」

 克輝くんは同じことをくりかえすだけだった。

 G2 いただろ?

 ……わかった。

 

つづく。

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