第7回 お疲れ様でした。だけだった

 冬。

 香月がいつ会社を辞めたのか、正確なところは自分でもよくわからない。たぶん〈Ⅸ〉か〈Ⅹ〉のプリントアウトを待っているあいだのどこかだった。

 未練はなかった。向こうがこっちを見くだしてのけ者にしていたのと同じくらい、こっちだって向こうを嫌っていたのだ。それに、さいきんは、家にいるあいだも例の医療コミュニティと活発にやりとりしている。そこでは専門的な議論をできるなら(たとえば〈マークⅨ〉の呼吸器系も、ここでたくさんのヒントをもらった)、こっちが遊びでやっているのを隠す必要もない。性別とか、体型とか、年齢とか、そんなくだらないことでからかわれたり無視されたりすることもない。むしろぜんぜんべつの議論に意見を求められたり、思ってもいなかった技術情報を教えてもらったりする。

 そこで会社にメールを一通、それもたった三行だけのを送りつけて終わらせてやった。

 謝罪も理由も書かなかったのは、何十行にもわたって相手を責めたてるより、よっぽど効果があるのを知っているからだった。たとえるならたった一文字のwのように。先方にそれを感じ取れるだけの感受性があったかはわからない。返事はいつのまにか――じつのところ、気になるあまり、ほとんど五分に一回のペースでメールサーバに問い合わせていたら、その六十回めくらいに――届いていた。こっちはもっとそっけなかった。たった一行……それどころかほんの八文字、お疲れ様でした。だけだった。だから、きっと効果はあったのだ、やつらは自分たちが受けた以上のダメージをあたえてやるつもりで、五時間もかけてもっとも効果的な(と、やつらが考える)返事をどうにかひねくりだした。それがあの八文字、そっけないどころか、事務的ですらない定型文だった。

 こんなの香月にとっては平常運転、いつものことでしかない。小さいころから無視されるのにも慣れている。こんなのなんとも思わない。思うわけがない。

 こうして香月は無職になった、めでたいことだった。自慢したい気分だったから克輝くんにもメッセージを送った。すぐに既読になり、すぐにみっともないキャラクターが腹をかかえて大笑いしている、くだらないスタンプが返ってきた。くだらなかった。ほんとうにくだらなかった。あまりにくだらなさ過ぎてどうしようもないほどだった。

 親はそんなわけにはいかなかった。

 べつにあえて教えなくちゃならないほど重要なことでもなかったから(就職したときは、自分のことでもないくせにちょっと考えられないくらい大はしゃぎして会社にごあいさつの電話までしてしまい、あとあとまで香月がからかわれる原因となった)、なにもいわずにいたら、どうやら親ならではの勘が働いたらしい。

「あんたさいきん会社どうしたの?」

 食事ちゅうに、ついでみたいな訊きかただった。

 気に障ったからわざとそっけなく答えてやった。「いってないよ」

「なんで?」

「辞めたから」

 こんなシンプルなやりとりの、どこに起爆ボタンが隠れていたのやら想像もつかない。とつぜん母親が、味噌汁をひっくり返すいきおいで怒りだしてしまった。心底うんざりしたし、正直にいうといい気味でもあった。いっぽうてきにわめきちらす母親をてきとうに受け流してやれるだけのよゆうがあることに、自分でも驚いていた。いや、あらためて考えてみると(そういえば、ものごころついていらいあらためて考えてみるなんてしたことがなかった)、香月にだっていいたいことはたくさんあった。それこそ、母親がぶちまけている憤懣をはるかに超える物量が、小学校三年生のとき、第三者委員会の調査結果を両親がなんの異議もなく受け入れてしまってからずっと香月のなかに堆積していた。そのすべてをぶちまけてしまったら、母親の理不尽に激しい怒りなんて(なんの役にも立たない父親の、目にしたくもない狼狽ぶりもいっしょに)あとかたもなく吹き飛ばせただろう、油田の火災をいっしゅんで吹き消してしまう、ニトログリセリンの大爆発のように。

 そしてなにも残らなかったにちがいない。

 そんなことにつきあっているひまはなかった。聴講したい学会のオンラインセミナーがいくつかあったし(聴講者用のIDは主催者に個人的に横流ししてもらっていた)、かんたんなモデリングを、コミュニティのボランティアで引き受けてもいた(自室からリモートで大学の研究室のバイオCADに接続して学生と作業する約束だった)。それだけ実践を積み重ねても、まだ克輝くんの、あの天才的ともいえる技術力に追いつける気がしなかった。あの熱量の、足もとにもおよばなかった。もっとがんばらなくちゃならなかった。


つづく。

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