第4回 なるほど、と香月は思った、だからなに?

 秋。

 あれくらい複雑な生命体だと(克輝くんはあたりまえのようにこの言葉を使った)、プリントアウトにも時間がかかる。香月が連絡をもらうまでに一週間かかった。

 スマホのメッセージだった。となると、このあいだの訪問で、ふたりはあのディスプレイのMSゴシックでおたがいの連絡先についても話していたことになる。まるでふつうに常識的なおとなが、小学校時代のなつかしい友だちと思いがけず再会したときみたいに。

 時間ならいくらでもあったから、すぐさま香月は病室に駆けつけた。

 なにしろここ数日は、会社を無断欠勤し、愛用のゴムの伸びきったスウェット姿で、一日じゅう部屋にこもりきり、パソコンをいじってばかりいた。手はじめにネットで例のあのソフトウェア――バイオCAD――を調べてみた。アメリカの新興医療メーカーの主力製品で、再生医療用バイオプリンタとセットで価格は$7,000,000~だった。とても手が出せたものじゃない。ホームページはぜんぶ英語だった。マニュアルもとうぜんぜんぶ英語だった(中国語版もあった。だからといって香月が読めないことに変わりはなかった)。翻訳サービスに読みこませようとしても、著作権ガードがかかっていてむりだった。

 つぎに定価七億円のバイオCADの、ベースとなったソフトウェアを突き止めた(医療関係のコミュニティの掲示板を探しあてて検索してみたらあっけなく見つかった)。こっちはオープンソースで、マニュアルも有志が日本語に翻訳してくれていた。ためしに自分のパソコンにダウンロードしてセットアップしてみた。起動してみるとたしかにあの画面だった。なんか作ってみることにした……RPGの雑魚キャラあたりでも。

 たちどころに時間がすっ飛ぶようないきおいで流れすぎた。

 スマホがうるさく騒ぎたてるので見てみたら部長からのメールだった。そこでやっと香月は何日も会社を無断欠勤していたことに――正確にいうと会社のことなんて完全に頭から消え去っていたことに――気づいた。プレゼン資料の期限はきのうの朝だった。おとといまでに提出しておかなくちゃならない資料も山積みだった。紙資料のPDF化やお茶くみは、ほかの社員(たとえば去年の新人で、さっそく担当のクライアントをわりあてられた巨乳のかわい子ちゃん)にやってもらわなければならず、各方面に多大な迷惑をかけていた。

 なるほど、と香月は思った、だからなに? と。

 かなり長文のお叱りメールの、誹謗中傷めいた内容から、自分が上司に(そしてどうせ同僚たちにも)ほんとうはどう思われていたのか、やっと確信することができた。つまるところ、香月の人生は、場所やかかわる相手の顔ぶれが変わっただけで、小学生のころと本質的なところではなにも変わっていなかった。それがわかっただけでもこのメールはむだじゃなかった、眺めているだけで下腹のあたりがむかついて、朝食代わりに食べたばかりのコンビニの唐揚げを吐いてしまったのはともかく。むしろ通常運転がわかって安心したくらいだった。

 克輝くんの病室に入ってみると、水槽は金網で間仕切りされていて、かたほうには〈マークⅣ〉、もうかたほうには見おぼえのないやつ(かといって雑魚キャラであることに変わりはない)が、ビニール袋みたいな身体を水流になびかせていた。〈マークⅤ〉だった。

 はずして

 いわれたとおり、香月は間仕切りの金網をはずした。


つづく。

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