終章 白風に笑う

白風に笑う(一)

「おう」


 涼風が心地よい屋敷の院子にわ、蓮の花咲く池のほとりで配下の一人と話していた伯英は、養い子の姿をみとめてかるく手をあげた。


「早かったな」


 それがなに、とでも言いたげな顔をした少年に苦笑して、伯英はかたわらの男に目配せをした。


 うなずいて立ち去った男の名は蘇丁そていという。王家軍でも古参の部類に入る男で、かつては子怜の護衛役も務めていた。


 筋骨隆々たる大男だが、いかつい見た目のわりに気性はいたって温厚で、ついでにすこぶる無口である。先の戦いで目に傷を負い、しばらくろうに戻っていたが、このたび文昌ぶんしょうとともに合流を果たした。


「それで? どうだった。まさか、また怒らせたりしてないだろうな」

「してないよ」


 そっけなく応じたあとで、そういえばと付け加える。


「泣いてたけど」

「……なに言ったんだ、おまえ」

「べつに」


 さっさと歩きはじめた養い子を呼び止めようとした伯英だったが、結局頭をひとつ振って小さな背中を追いかけた。


「あのひとの護衛だがな、蘇丁に任せることにした」


 ふたり並んで歩きながら、伯英は子怜に話しかける。


「あいつの目な、もう治ってはいるんだが、念のためもうしばらく養生したほうがいいらしい。護衛の任ならうってつけだろう」


 返事はない。相槌すらも返ってこない。いつものことだ。聞いているのはわかっているので、伯英は構わず話をつづける。


「いっそ、おまえもついて行ったらどうだ」

「なんで」


 即座にいらえが飛んできた。足を止めた少年が、まっすぐにこちらを見つめている。


「なんでって、おまえの嫁さんだろ」

「もう違うよ」


 真正面から切り込まれて、伯英は早々に白旗を揚げた。この少年に、中途半端なごまかしは通じない。それこそ、昔からわかっていることだ。


「……その方がいいかと思ったんだよ」


 新しい家族と、新しい土地で、争いとは無縁の穏やかな暮らしを。そんな道があってもいいのではと、らちのない思いにふけったのだ。この少年が首を縦にふることなどあり得まいと、半ば確信しながらそれでもなお、もしかしたらそんな道も、と。


 苦い笑みをたたえる養父を、少年はじっと見つめ、つと腕を持ち上げた。


「それ」

「あん?」


 細い指が、負傷した伯英の右腕を指す。


「だから怪我したんだ。余計なこと考えてたから」

「余計って、おまえな」


 養父の渋面から視線を外し、子怜はふたたび歩きだす。


「その言い草はないだろう。これでもおまえの将来さきを考えてだな……」

「いらない」


 すぱんと音がしそうなほど、容赦のない拒絶が返ってきた。


「そういうの、本当にいらない」


 振り向きもしない少年に、まいったなと伯英は頭をかく。これは相当へそを曲げられているらしい。


 連城県令が賊と通じ、王家軍をおとしいれようとしているのでは。その可能性は、早くからこの少年に指摘されていたところである。


 五分五分だけどね、と前置きしつつ、襲撃されるならこの辺り、と地図の一点を示されたのは、連城県令を交えた軍議の後のことだ。


 そうなったらここまで、と白い指を横にすべらせ、小さな軍師は説いてくれた。ここまで敵を引っ張ってくればいいよ、と。ちょうど文昌と合流できるから、呼吸を合わせて挟撃すればいい。そう事もなげに告げられて、いつもながら簡単に言ってくれるものだと伯英はうなったものである。


「ちゃんと言ったのに」


 細い声が耳に届いた。


 短い追憶から覚めた伯英の目に、澄んだ双眸が飛びこんでくる。凪いだ湖面のような静かな瞳に、胸の奥がざわりと騒ぐ。


「死なないって」

「……死んでないだろ」


 それが出征前夜に交わした約束だと気づくまで、数呼吸ほど必要だった。


「勝手に殺すな。そりゃ、ちっと下手打っちまったが、こんなもん、かすり傷だぞ。話が大げさに伝わっただけだ。それくらい、おまえもわかっていただろう」

「それでも、嫌だった」


 とん、と胸を押された気がした。たじろぐような深い瞳に沈んでいるのが怒りか非難か、はたまた全く別の何かなのか、伯英には判断がつかなかった。


「嘘だって、わかっていても」


 淡々と、少年はその言葉を繰り返した。


「本当に、嫌だった」



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