花のごとく、風のごとく(六)

「子怜さま」


 夫と二人きりになったところで、静蘭はあらためて床に手をついた。


「このたびは、子怜さまにも……」

「いいよ」


 謝罪は、すかさずさえぎられた。


「そういうの、もういいから。嘘ついてたのは、こっちも同じだし」

「嘘、とは……」


 それはいったい、と静蘭はぼんやりと思いをめぐらせる。


 この少年の偽りとは何だろう。養父の敗死を信じたふりをしていたことか。兄の裏切りに気づかぬふりをしていたことか。いつから、どこから、このひとは知っていたのだろう。どこまで承知の上で、形ばかりの婚姻を受け入れていたのだろう。


「だから、やめなよ」


 淡々と、そして無造作に、少年は決定的な言葉を静蘭に放った。


「ぼくに謝って、楽になろうとするの」


 心臓が跳ねた。呼吸が止まった。


 凍りついたように動かない静蘭を、少年はしばし見つめ、それからふっと目をそらした。


「気にさわったのなら、ごめん」

「……いえ」


 いつかの晩と同じ謝罪に、静蘭はゆるゆると首をふった。


「まこと、おっしゃとおりでございますね」


 そうだ、と静蘭は苦い思いを呑み下す。この少年の言うとおりだ。自分は、楽になりたかった。ゆるしてもらいたかった。口では厳罰を望みつつ、心の底では甘い慰めを乞うていた。おまえは何も悪くない。だからもう気に病むことはないのだ、という。


 なんと浅ましいことだろう。結局自分は、どこまでも卑しく愚かな醜女に過ぎないのだ。


「あのさ」


 ちゃり、と石のふれあう音がした。


 顔をあげると、小袋を手にした夫と目が合った。涼やかなその目元には、わずかな媚びが透けていた。


「碁盤ある?」

「……は」


 数瞬の後、静蘭はこらえきれずに吹き出した。


「何を……おっしゃるかと思えば」


 まったく何なのだろう、このひとは。怖ろしいほど冷徹な台詞を口にしたかと思えば、今度は子どものように遊戯をねだる。この、どこまでも気ままで捉えどころのないさまは、まるで――


「――春風に笑う」


 澄んだ声が、詩の一節を吟じた。


 はっと息を呑んだ静蘭の前で、少年は床に片膝をたて、まぶしいものでも見るように目を細めた。


「だったっけ。たしかにあなた、春風みたいだよね。


 ――そなたはまるで、春の風のように笑うのだな。


 穏やかな声が、脳裏によみがえる。いかつい顔をほころばせ、静蘭に笑いかけてくれた最初の夫の。


 静蘭はたまらず顔を伏せた。両袖で顔を覆い、涙と嗚咽を押し隠す。


「……ちょっと」


 戸惑ったような気配が伝わってきて、静蘭は泣きながらまた笑った。この少年を驚かせることができたのは初めてだった。おそらく、二度目はないだろう。


「ありがとうございます」


 涙をぬぐい、静蘭は顔を上げた。


「子怜さま、わたくしからも、ひとつよろしいでしょうか」


 最高の賛辞をくれた少年に、静蘭はその言葉を贈った。


「お笑いくださいませ」


 澄んだ瞳がまたたく。澄んだ泉のような双眸を、静蘭は真っ直ぐに見つめ返した。


「あなたさまがこれからかれる道は、けっして平らかなものではございますまい」


 名高い武将の義子として、たぐいまれなる美貌と才知の持ち主として、このひとは今後も争いと陰謀の中で生きていくのだろう。身を切り、血を流し、心を削りながら歩んでいくのだろう。だから、せめて、


「お笑いくださいませ。笑みは、ときにあなたさまをお助けする武器となりましょう」

 

 ときに敵をあざむく仮面として。ときに己を守る鎧として。


 そしていつの日か、と静蘭は願った。このひとが、心から笑える日がくるように。本当に愛おしい相手と笑顔でともに過ごせるように、と。


「どうか、ご無事で」


 祈りをこめて、静蘭はひとときの夫に笑みを送った。蘭花にあらざる、しかし静蘭にとってはこの上なく誇らしい、春風の笑みを。


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