第五章 花のごとく、風のごとく
花のごとく、風のごとく(一)
――蘭花は春風に笑う。
かつて、一人の詩人が黄家の令嬢を評してそう
幼い頃から、静蘭は自分が不器量であることを知っていた。肌は黒く、目は小さく、平べったい鼻にひしゃげた口がついた顔は、まるで出来損ないの饅頭のよう、と兄はよく
その笑いも、静蘭が長ずるにつれ苛立ちに変わっていった。かくも醜い妹には、ろくな嫁ぎ先も望めまい。静蘭を見る兄の目には、そんな思いがありありと浮かんでいた。閨閥づくりの駒にもなれぬ、忌々しい醜女めが、と。
だが結局、兄はその問題も自身で解決してしまった。老齢の父に代わって早くから黄家を取り仕切っていた兄は、とある詩人に金品を送り一篇の詩を
兄は使用人に命じて、この詩句をほうぼうで喧伝させた。酒楼の壁に、自ら筆をとって書きつけたこともある。
兄が眉目秀麗な若者であったことも、“蘭花笑”の噂に信憑性を与えることになっただろう。この若者の妹なら、と周囲は勝手に想像するのだ。蘭花のごとき華やかな、麗しい娘に違いないと。
日ごと高まっていく“蘭花笑”の評判から逃れるように、静蘭は屋敷の奥で息をひそめていた。もとより良家の令嬢はみだりに出歩かないものだが、静蘭はそれこそ一歩も屋敷を出なかった。兄に禁じられていたせいもあるが、そうでなくとも静蘭自身、外に出て姿をさらす勇気など欠片もなかった。
一度目の縁談がまとまったとき、静蘭が最初に感じたのは途方もない恐怖だった。器量のぞみで自身を選んだであろう未来の夫に、失望されるのが怖かった。結果として静蘭の予想は外れ、思いがけなく幸福な日々を送ることになったのだが。
最初の夫とは正反対に、そして静蘭が予想していたとおりに、二番目の夫は落胆を隠さなかった。騙されたと怒り狂い、静蘭の髪をつかんで寝所から引きずり出しもした。度を越した夫の仕打ちに、静蘭は抵抗しなかった。殴られても蹴られても、微笑みは絶やさなかった。
逆らってはいけない。反抗してはいけない。兄にも、夫にも。ただひたすら頭を下げ、笑って嵐をやり過ごす。それだけが我が身を守る術だった。そうやって、これまで生き延びてきた。
「静蘭、愚かな妹よ」
兄の声で、静蘭は我に返った。顔をあげると、嘲笑を浮かべた兄と目が合った。
「そなた、その
兄が嗤う。男たちが嗤う。悪意したたるその響きに、静蘭は身をすくめた。見えない手に押さえつけられたように頭が下がり、広げた両腕がだらりと垂れる。
「そこを退け、静蘭。いま退けば許してやってもよい」
笑え。そう静蘭は己に言い聞かせた。微笑みを絶やすな。
「案ずるな。すぐにまた新しい夫を見繕ってやる。そなたに似合いの、よき夫をな」
笑え。己が身を守るために。これ以上傷つくことのないように。愚かで醜い女が生きていくには、それしか道はないのだから。
――なんで、
不意に、細い声が聞こえた気がした。うっかり手を浸したら切れるような、どこまでも澄んだ瞳が頭をよぎる。
――なんで、笑いながら嘘つくの。
「……いいえ」
静蘭はゆっくりと頭を持ち上げた。両の肩が大きく上下しているのは恐れのためか、はたまた羞恥のせいか。
「いいえ」
違う。これは嘘ではない。これだけは嘘ではない。いまの自分を突き動かしているのは、怯えでも恥でもない。熱く溶ける鉄のような、触れた指先が凍えるような――怒りだ。
「愚かなのはあなたです。兄上」
夫を背中にかばったまま、静蘭は真っ直ぐに兄を見た。
「兄上こそ、そこをお退きください。これ以上、人の道に外れた真似はなさいますな」
がくりと兄のあごが落ちた。やがてその身が小刻みに震えはじめる。
「……この」
白皙の面を赤黒く染め、黄家の当主は唾を飛ばしてわめき散らした。
「
兄が傍らの兵士から剣をひったくり、鞘を床に投げ捨てる。その動作を、静蘭はひどく冷静に眺めていた。恐怖は感じなかった。このときをずっと待っていたような気さえした。
我が身に振り下ろされる白刃を思い、静蘭は目を閉じた。と、一迅の風が頬をなぶった。
「ぐっ……!」
どん、という地響きに、くぐもった悲鳴が重なった。
まぶたを開いた静蘭は、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「――いいね」
華奢な少年が、黄家当主を組み敷いていた。どんな奇術を使ったのか、相手の首筋に奪い取った剣を押し当てながら、少年はふっと静蘭に微笑みかけた。
「そっちの顔のほうが、ずっといい」
白い花がほころぶようなその笑みは、たとえようもなく美しかった。
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