雨過天哭(六)

 最初の夫は、兄の代わりに戦死した。


 連城付近で起こった叛乱の鎮圧は、もともと県令たる兄が当たるものだった。それがどういうわけか、静蘭の夫が鎮撫軍の総大将に据えられ、出征した夫は二度と帰ってこなかった。


 次の夫は、兄に売られた。


 静蘭の嫁ぎ先である太興たいこうを襲った莫軍の、途中までの進路は連城だったとも聞く。太興陥落の報に接した兄は、里帰り中の静蘭の前で薄く笑ってこう言った。まこと運が良かったことよ、と。


 企みがうまく運んだとき、思うとおりに他人を動かしたとき、決まって兄の顔に浮かぶその笑みを見て、静蘭は兄がふたたび人の道を踏み外したのだと悟った。


「申し訳ございません」


 そしていま、静蘭は三人目の夫に頭を垂れていた。


 平伏する静蘭を前に、夫は無言だった。いつかのように、なぜ謝るのかとは尋ねなかった。尋ねるまでもないのだろう。この少年は、もう知っているのだ。静蘭が犯した罪の重さを。


「申し訳、ございません……」


 詫びたところで意味はないとわかっていた。それでも謝ることしかできなかった。許してくれとは、口が裂けても言えなかった。この少年から養父を奪ったのは静蘭の兄。否、兄のはかりごとを察していながら、口をつぐんでいた己自身だ。


 そう、わかっていた。三度目の婚姻を勧められた、あの晩夏の宵から。わかっていて、静蘭は何もしなかった。笑みを顔に張りつけて、己自身をも騙していた。自分は何も知らぬのだと。これまでずっとそうしてきたように。


「……申し訳ございません……まことに、も……」


 何度も額を床に打ちつける静蘭の肩に、誰かの手が触れた。はじかれたように顔をあげると、澄んだ泉のような瞳が間近にあった。


「やめなよ」


 どこまでも深く、静かな黒い瞳。その目を見た瞬間、静蘭は心を決めた。


「お逃げくださいませ」


 澄んだ瞳が見開かれる。そこに映った自分は、もう笑っていなかった。滑稽で見苦しい、愚かな女。だが、それでいいと思った。そうでなければいけないと思った。


「御身が危のうございます。すぐにここからお逃げください。どうか、早く……兄に気づかれぬうちに……」


 たん、と扉を開く音がした。夫の視線が静蘭の背後に向けられる。その先を追って振り向いた静蘭の背筋が凍りついた。


「あに……」

「まったく、何をやっているのだ、そなたは」


 扉の側に、数人の男が立っていた。背後に屈強な兵を従えて、静蘭の兄は呆れたように頭を振った。


「わたしは、婿どのをお慰めして差し上げよと言ったのだぞ。さらにお心を騒がすような真似をしてどうする」


 ゆっくりと、兄は静蘭に歩み寄った。兵士たちも兄につづいて部屋に踏み入る。拳を鳴らし、これみよがしに腰の剣に手をやりながら。


「まあ、そなたには荷が重い役目だったようだな。あとは我らに任せてそなたは下がれ。さ、婿どの、どうぞこちらへ」

「……兄上」


 あえぐように静蘭は呼びかけた。背中に少年をかばい、両手を広げる。


「どうか、おやめください……これ以上は、もう……」

「聞こえなかったか」


 鞭のような声が、静蘭の懇願をはねつけた。


「さっさとそこを退け。そなたには関わりのないことだ」

「……いいえ」


 震えながら、それでも静蘭は必死にかぶりを振った。


「関わりはございます。わたくしは、この方の妻……」

「妻とな!」


 返ってきたのは、けたたましい哄笑だった。手をたたき、腹をかかえて笑う兄は、もはや名家の当主にも一城の長にも見えなかった。追従するように笑う兵士たちと同じ、ただの下卑た男だった。


「よくぞ言えたものよ。その孺子こぞうを前にして、妻などと……よりにもよって、そなたが……」


 端整な顔を嘲笑にゆがめ、史明は静蘭に指を突きつけた。


「そなたのような醜女が!」



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