雨過天哭(五)
嫌だな、と。ただひと言。そう夫はつぶやいて、窓の外に目を向けた。
王家軍の敗戦を、養父の訃報を、夫に促されるまま語り終えた静蘭は、ぼんやりとその横顔を見つめていた。
窓から吹き込む雨の雫が夫の髪を、頬を濡らす。透き通るような白い肌には、つい先日
よかった、と。この美しい水晶細工のような少年に、自分ごときが傷をつけるなど出来はしないのだと。そう思っていたはずなのに――
「本当に、嫌だ」
雨にかき消されるような呟きとともに、何かが
「し……」
とっさに夫の名を呼びかけて、結局何も言えずに静蘭は唇を噛んだ。慰めも励ましも、いまのこのひとには届くまい。もしかしたら、この先もずっと。
初めて会ったときから、熱を感じさせないひとだった。奇妙なほど浮世離れしたような。誰しも抱えているはずの重い感情の塊を、どこか遠くに置いてきたような。
そんな夫の胸の奥に、かろうじて残されていた貴重な何かが砕かれた。卵の殻を踏みつぶすように儚く、あっけなく。取り返しのつかないほど粉々に。そう思えてならなかった。
「それで」
どれほど時がたっただろう。うなだれていた静蘭は、その声にはっと顔をあげた。
「どうしてほしい」
発せられた問いの意味を、すぐには理解できなかった。
「どう、とは……」
「あなたがお兄さんに、なんて言われてきたのか訊いている」
がん、と頭を殴られたような衝撃だった。静蘭をひたと見つめる黒い瞳。一片の感情も窺えないその色に、静蘭の身が震え出す。
「殺してこい? それとも、眠らせて縛り上げろとか」
「そのような……そのようなことは……」
うわごとのように繰り返す妻に向ける目に、憐れみに似た色がよぎったように見えたのは気のせいか、はたまた静蘭の願望か。
「嘘つかなくていいよ」
「ぼくの体が」
王虎将軍の養子の身柄が。迫りくる賊軍に差し出す首が。連城を、いや、黄家一族を守るため、当主の身代わりになり得る存在が。
「……そのようなことは」
できそこないの人形のように、静蘭はかぶりをふった。嘘ではない。自分は何も聞いていない。何も明かされていない。ただ薬を渡されただけだ。気が鎮まるだけの、ただの薬を。わずかなりとも夫の心が安らぐように。苦痛が取り除かれるように。
「いいよ」
淡々と告げた少年は、つと目線を横に流した。その先にあるのは、静蘭の手元に置かれた盆。とうに冷めた茶の碗に、夫は華奢な手を伸ばす。
「あなたが飲めと言うなら」
細い指が、茶碗を持ち上げる。ゆっくりと口元まで運んだそれに、夫はためらいなく――
ガシャン! と耳障りな音が部屋に響いた。
床に両手をつき、静蘭は荒い呼吸を繰り返した。耳を圧するのは自身の鼓動か。どくどくと、大きく脈打つその響きのほかには何も聞こえない。
かたくつむった両目を再び開くと、床を濡らす小さな水たまりが視界に入った。それから、砕けた陶器の破片が。たったいま静蘭が叩き落とした茶碗の欠片だ。
ほうと大きく、静蘭は息を吐いた。いつの間にか、雨の音は遠ざかっていた。
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