雨過天哭(四)

 静蘭が寝所に足を踏み入れると、湿り気を帯びた風が頬をなぶった。ざあっという雨の音が身をつつむ。こんな空模様で誰が窓など、と眉をひそめた静蘭は、そこで思わず息をのんだ。


 大きく開け放たれた窓の桟に、ひとりの少年が頬杖をついていた。白い寝間着に薄墨色の上衣をひっかけただけの姿で、その少年は雨落ちる空を無心に眺めていた。


 子怜さま、と。呼びかけた声は雨の音にまぎれて消えた。


 茶器を載せた盆を手にしたまま、静蘭はしばしその場にたたずんでいた。この年若い夫との間には、まるで見えない壁でもあるようだ。水のように透明でやわらかく、しかし決して踏み越えることはできない壁が。


「……なに」


 そっけない声で、静蘭は我に返った。窓にもたれる少年が、目線をこちらに寄越していた。結わずに流した髪の一筋が、華奢な肩にさらりと落ちる。


「失礼いたしました」


 静蘭はとっさに笑みを浮かべて頭を垂れ、しずしずと歩を進めて卓の上に盆を置いた。


「今朝はずいぶん早いお目覚めでございますね」


 非難の響きが混じらぬよう、にこやかに静蘭は話しかける。ごく短い付き合いだが、この夫がたいそうな朝寝坊であることは承知していた。放っておけば昼まで目覚めないこの少年が、朝も早い時刻に起き出しているとは驚きである。


「雨が、うるさくて」


 独り言のように、少年はつぶやいた。気だるげなその様子からして、昨夜からあまり眠れていないのだろう。長い睫毛に縁どられた瞳は精彩を欠き、白い肌も心なしかくすんで見えた。


「雨はお嫌いですか」


 静蘭の問いに、子怜はかすかに眉根を寄せ、ふたたび窓の外に目を向けた。妻を無視したというより、問いの意味をはかりかねたように。嫌い、という言葉の意味をつかみ損ねたように。


「よろしければ、子怜さま」


 声が震えぬよう、笑みが強張らぬよう、静蘭はあらんかぎりの力をもって、自身の心を握りつぶした。


「朝の茶はいかがですか。よい茶葉を、兄から分けていただきましたの。とても香りのよい茶葉で……」


 無理だ、と。あらためて静蘭はそう思う。自分には無理だ。到底できない。この少年に無情な報せを突きつける役目は果たせない。だから、せめて――


「子怜さまのお心も平らかに……」


 かつん、と手元で茶器がぶつかった。もやは手の震えは隠しようもなく、それでも静蘭は湯で温めた椀に茶を注ぐ。馥郁たる香気が、室内にたちのぼった。


 その香りに誘われたように、少年は首をめぐらせる。湯気の立つ茶碗をしばし見つめ、夫はつと目をあげた。


「伯英が」


 とっさに静蘭はうつむいた。その先を口にする夫と目を合わせる勇気など、はなから持ち合わせていなかった。


「伯英が、死んだんだね」



 

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