雨過天哭(三)

「え……」


 その日、兄の自室に呼ばれた静蘭は、思いもよらぬ報せに呆然と立ちつくした。一昨日から降り続いている雨の音が、にわかにすうと遠ざかる。


「それは、まことに……」

「このようなことで嘘を申すか」


 形の良い眉を寄せ、兄はさらに詳細を語る。しかしその言葉の半分も、静蘭の耳には届いていなかった。


 王虎将軍、敗死。


 あまりに重いその報せは、静蘭をし潰し、深い河に引きずり込むようだった。


「……以上が斥候が持ち帰った報告だ。要は、莫軍の動きが予想より速かったということだな。いかに精強な王家軍とて、横合いから奇襲を受けてはひとたまりもなかろう。将を失った王家軍は散り散りに……」

「子怜さまは」


 あえぐように、静蘭はその名を口にした。暗いよどみのただなかに、ふっと白い花のようなかんばせが浮かぶ。


「子怜さまは、もう……」


 話をさえぎられた史明しめいは、一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに顔をしかめて首を横にふった。


「それは……」


 よかった、と束の間の安堵を覚えた静蘭だったが、すぐに馬鹿なと自身を叱りつけた。


 いったい何が良いというのか。遅かれ早かれ、あの少年も知ることになるのだ。かけがえのない養父の死を。


「ゆえにそなたを呼んだのだ。この件、そなたから婿どのに伝えよ」


 兄の指示は、さながら雷鳴のように静蘭の身を貫いた。


「無理でございます」

「なにが無理だ」


 ほとんど悲鳴のような妹の訴えを、史明は冷淡に退けた。


「そなた、仮にも妻であろう。むごい報せだ。婿どのとて、赤の他人から切り出されるより、そなたから聞かされる方がよほど気も休まるというもの」


 あの少年にとっては、と苦い気持ちで静蘭は唇を噛んだ。妻たる自分とて赤の他人なのだろうと。あの研ぎ澄まされた美貌の夫が、身内と慕うのはただ一人。虎の名を冠された、少年自身の養父だけだ。


「くれぐれも慎重に、言葉を選んで伝えるように。しかし、婿どのはまだお若い。悲しみのあまり取り乱すこともあるだろう。そのときは――」


 おもむろに史明は懐をさぐり、小さな紙包を取り出した。


「これを飲ませて差し上げろ。茶か酒にでも混ぜるとよい」


 ぐらりと、静蘭の視界が傾いた。


 顔から血の気が引いていく。爪先が、指の先が熱を失い、肩が小刻みに震え出す。


「……兄上」

「なに、たいしたものではない。ただ気を鎮め、眠りやすくするだけの薬だ。婿どのにはこれを飲んで、ゆるりとお休みいただくがよかろう」


 兄上、と。静蘭は呼びかけた。かすれた声で、いくたびも。呆けたように、ただそれだけを。


「あに……」

「案ずるな」


 兄の指が、静蘭の手に触れる。とっさに振り払いかけた手を、逆に強く握られた。掌に食い込む紙片の感触が、たまらなく厭わしかった。


「そなたは兄の言うことに従っておればよい。これまでと同じように」


 なぜ、と静蘭は痺れたような頭の隅で考える。


 莫軍が王家軍を急襲し、王虎将軍が討ち取られた。その凶報を受けながら、なぜ兄はこうも落ち着いていられるのか。敵将の首を狩った莫軍が、次に狙うは当然ここ連城であろうに。迫りくる危機を前にして、なぜこの城市まちおさは泰然と構えていられるのか。


 答えなど、はじめからわかっていた。兄の顔を見たときから。否、内密の話があると兄に呼び出されたそのときから。


「そなたは何も案ずることはない」


 幼子をなだめるように、史明はその言葉を繰り返した。端整な容貌に、この上なく醜悪な笑みをたたえて。


「まこと、よい妹だ。わが“蘭花笑”は……」



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