出征前夜(三)
「そういうわけだから、しばらくよろしく」
「それは……」
いつもながらの無表情で言い放った夫の前で静蘭はしばし絶句し、次いで深く頭を垂れた。
「誠に申し訳ございません」
「なんであなたが謝るのさ」
それは蓮城県令が王家軍に信を置いていないことを公言したからであり、よりにもよって王虎将軍の養い子を人質に留め置けと要求したからであり、そして何より、その無礼をはたらいた張本人が、静蘭の実の兄だからであった。
そのあたりの事情を説こうとした静蘭だったが、結局あきらめて目を伏せた。この奇妙に浮世離れした夫には、そんな世俗のしがらみなど理解できまい。侮りではなく、むしろ真逆の気持ちで静蘭はそう悟った。
うつむく静蘭から早々に興味を失ったように、子怜は昨夜から卓に置いたままの盤に向かった。静蘭に対するときよりよほど熱心に碁盤を見つめ、ぱちぱちと石を並べていく。
「そうだ」
ぼんやりと夫の横顔を眺めていた静蘭は、か細い声で我に返った。
「ねえ、あなた」
「はい」
唐突な夫の問いかけに微笑んで応じながら、そういえば、と思い当たる。この夫には、今まで一度も名を呼ばれたことがないと。
そもそも、夫が静蘭の名を覚えているかも怪しいところだ。この少年の興味の対象は、極端なほどに絞られている。その大半を占めているのは黒白の盤上遊戯。それからおそらく、虎の二つ名をもつ養父なのだろう。
「どうして逃げて来られたの」
思いもよらぬ問いだった。棒のように立ちつくす静蘭には目もくれず、少年は盤上の石をすいと動かす。
「
誰だろう、と麻痺したような頭の片隅で静蘭は思った。自分が相対しているこのひとは誰だ。いや、これはいったい何だろう。この、怖ろしいほどに美しい、ひとの皮を被ったこれは――
「ねえ」
気がつけば、夫は真っすぐに静蘭を見つめていた。薄暗い部屋のなか、その少年の白い面だけが、ぼうと淡い光を放っているようだった。
「なんで、あなたは助かったの」
「……運が、良かったのでしょう」
己の声のひび割れを繕うように、静蘭は笑みを浮かべた。
「兄から文をもらいました。久方ぶりの里帰りはどうかと。それで……」
へえ、と夫は卓に頬杖をつく。視線は静蘭を縫い留めたまま。
「亡き夫も、快く送り出してくださいまして……短い間でしたが、夫には本当によくしていただきました。あのように立派な夫をもてたことは、わたくしの誇りでございます」
すらすらと、よどみなく静蘭は語った。我ながら語りすぎだとはわかっていたが、それでも口をついて出てくる言葉を止めることはできなかった。
語りを止めたら倒れてしまう。壊れてしまう。己を守る何もかもが。それだけは避けなければならない。
「ですから、子怜さま……王家軍の方々には、ぜひとも夫の仇を討っていただきたいと……」
「静蘭」
静蘭ははっと息を呑んだ。はじめて妻の名を口にしたそのひとは、形の良い眉をわずかにひそめて「なぜ」を重ねた。
「なんで、嘘つくの」
その瞬間、静蘭は足元が崩れるような感覚に襲われた。
崩れる。壊れる。すべてが粉々に。今まで必死に積み上げてきたものが。塗り固めてきた嘘が。この少年の、ただひと言によって。
「やっぱりあなた、あのひとに似てる」
それは誰に、と問い返すまでもなかった。自分に似ている、自分が似ている、その誰か。碁の打ち方が似ているという、この少年のかつての師。
「ずっと思ってたんだ。あなた、どうして笑ってるんだろうって」
少年はおもむろに腰をあげ、一歩こちらに歩み寄る。
やめて、と静蘭は声なき悲鳴をあげた。それ以上近寄らないでほしい。踏み込まないでほしい。さもなくば本当に壊れてしまう。やめてやめて、お願いだから――
「――なんで、笑いながら嘘つくの」
ぱん、と乾いた音がした。
掌に痺れるような痛みを感じながら、静蘭はくたりと床に膝をついた。己がしでかしたことが信じられなかった。たったいま、静蘭は夫である少年の頬を打ったのだ。
「……あ」
とにかく謝罪を。そう思っても声が出なかった。床に手をつく静蘭を、少年がどんな目で見下ろしていたかはわからない。気がつけば夫の気配は消えていた。
ひとり残された静蘭は、震える腕で我が身を抱きしめた。すがるように。許しを乞うように。
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