虎将の義子(六)
好きなだけ置いていい。そう言われて最初に三つ、盤に黒石を置かせてもらった。次に五つ。その次は思いきって十も。
「……お強いのですね」
しかしどれだけ差をつけてもらっても、この夫にはまるで歯が立たなかった。三度目の勝負でもあざやかに勝ちをさらっていった少年は、静蘭の賛辞に目をあげた。
「あなたも」
形のよい唇が、ほんのわずかほころんでいるように見えた。
「おもしろい手を打つ」
「おもしろい、でございますか」
うん、とうなずいて少年は細い指で盤上の石をさらう。
「あのひとに似てる」
それは誰かと尋ねると、少年は短い沈黙をはさんで「師父」と答えた。
「碁打ちのお師匠さまですか」
「……そんなところ」
この少年に稽古をつけるとは、さぞかし名のある打ち手なのだろう。もっと詳しくそのひとのことを聞いてみたい気もしたが、結局「さようですか」と返すにとどめた。その先に踏み込まれることを、この少年は歓迎すまい。何とはなしに、そう思った。
「次はどうする」
「まあ、まだおやりになりますの」
思わず静蘭は呆れ声をもらしてしまった。碁は嫌いではないが、さすがにこれ以上は付き合えそうにない。
「少し休憩されてはいかがですか。よろしければ茶でもお淹れしましょう」
夫がかすかにうなずいたので、静蘭は茶の支度のためにいったん部屋を出た。熱い湯と茶道具をもって戻ってみれば、少年は相変わらず卓に向かったまま、碁盤に石を並べていた。本当に碁打ちが好きらしい。放っておけば朝までひとりで遊んでいそうだ。
「あまり夜更かしはなさいませんよう」
温かな茶椀を差し出しながら声をかけると、子怜は碁盤から顔をあげて静蘭を見た。
「あなた、子どもがいた?」
どん、と胸を突かれた気がした。茶碗を取り落とさなかったことが不思議なほどの衝撃だった。顔からみるみる血の気が引いていくのが自分でもわかる。張りつけた笑みが剥がれていく。
「……なぜ」
震える手から茶碗を取り上げ、子怜は「似てたから」と言った。
「あなたが。伯英に」
養父に。王虎将軍に。
「伯英も、たまにそういう目でぼくを見るから」
それはきっと、と唐突に静蘭は悟った。
それはおそらく、我が子を慈しむような目ではないのだろう。それは失った何かを懐かしむ目だ。砕けた思い出をかき集め、かすかな温もりで凍えた手を温めるような、きっとそんな眼差しだ。
「気に障ったのならごめん」
声もなく立ちつくす静蘭から視線を外し、子怜はふたたび盤に向かった。もう話すことはない。そう告げているかような横顔に一礼し、静蘭は逃げるように部屋を出た。
一刻も早く、ひとりになりたかった。夫から離れたかった。この美しい少年が、なぜだか途方もなく怖ろしかった。
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