クローンの嘘

見切り発車P

クローンの嘘

《ココはクローン工場、第七工程養育室デス》

 機械音に導かれて、ガラスの向こうの見学者たちの列がぞろぞろと動く。僕はその様子をぼんやりと見上げながら、椅子に座っていた。

 人間のクローンが製造されるようになって久しい。この頃は、クローン工場を見学する小中学生など珍しいものではなくなった……らしい。僕はクローンであり、外の様子を見聞でしか知らないからあまり確証が持てなかった。けれど、ガラス越しに見る見学者たちはまだ未成熟な人々であることが多かった。

「はっ、じろじろ見やがって」

 僕と同時期に作られたクローンの一人が、苛立たしそうにそう吐き捨てた。確かに無遠慮にぶつけられる好奇の視線はあまり気持ちがいいものではなかった。

 仲間の言葉に苦笑いしながら、ガラスの向こうを見ると見学者の一人と視線がぶつかった。彼女は顔を青くしてすぐに目を逸らしたけれど、それから僕はなぜだか彼女を忘れることができなかった。

 あれから一年後、僕はガラスの外にいる。

 ガラスの向こう側には、僕の後輩たちがやはり煩わしそうにこちらへ視線を向けていた。僕はやはりその視線に苦笑いをして、ガラスから目を逸らした。

 人間クローンの製造は今の時代、商売になっている。僕たちは人ではなく、機械やペットと同じ扱いを受け、出荷される。

規定は厳しいけれど目的のために製造され、僕たちは商品として売買されているのだ。

去年の夏、僕――『大槻翔太』という商品――は大槻夫妻への納期に達し、工場から出荷された。大槻夫妻は八年前に息子を亡くし、そのクローンである僕を注文したらしい。

人間のクローンの製造は二種類あり、労働力として同一規格で作られる場合と、僕のように特注品として受注されて製造される場合がある。

工場ではどちらの型のクローンとも生活した。出荷後を想定してインプットされる情報以外に、製造方法に違いはないからだ。

 出荷されてから僕は、慣れない生活の中で、自分が僕という一個人なのか、それともオリジナルの大槻翔太の延長線上として存在しているのか、そんなことも分からないまま、ただぼんやりと『大槻翔太』という人生を消化していた。

 クローン製造の見学を終え、工場を出ると時刻は正午を超えていた。わりとあっさりと終わった帰省は予想以上に僕の心を揺さぶることはなかった。懐かしさどころか居心地の悪ささえ感じることはなく、ただもうあそこに僕の居場所がない事に対して悲しさと安堵を抱いていた。

 街路樹が青々とした葉を揺らし、少しばかり潮の匂いのする風が通った。沿岸部の工場地帯の一角、空を見上げると快晴で雲一つなく強い日差しが照り付けていた。同じく見学終りの子供たちが我先にと僕を追い越して駆け出していく。その先にある横断歩道の赤信号を見て青い顔をした彼らの両親が引き留めるために慌てて走り出していた。そんな親の心配を知らず、子供たちは目の前を行き交う車を見つけて、道路スレスレで急ブレーキをかけた。

後ろにある無機質な工場とは違い、外の世界は生命力にあふれている。

 さっきまで、あの中にいたとは思えない。そもそもあそこで生まれ育ったことすら、もはや夢の中の記憶の様だった。

 でも、あの中にいた方が幸せだったかもしれないな。ふとそんな考えが頭の中によぎった。

 去年、僕は大槻夫妻に引き取られた後、ありふれた一戸建ての二階の一室をあてがわれた。よく手入れされた、けれど、時間が止まったような部屋だった。

 初めて僕に会った時、『大槻翔太』の母親は顔を手で覆った。泣いているのだと気付いた時、僕は身が凍った。捨てられる、と体を強張らせ、助けを求めてもう一人の購入者へ視線を移すと、彼は泣き崩れた妻を宥めながら、温かいほほえみを浮かべて僕へ声をかけた。

「おかえり」

 僕は言葉を失って、後ずさった。かけられた言葉の意味も分からないまま、ここにいるのは『大槻翔太』以外の何者でもないのだと僕は理解させられた。

 大槻翔太は僕のオリジナルで、大槻夫妻の息子で、八年前、彼が十七歳の時に雪山で遭難し、失踪扱いになった。そして七年の月日が経ち、死亡判定へと繰り上がったのだ。

大槻夫妻は彼の死を悲しみ、彼のクローンを注文した。そうして僕は作られて、彼らに受け渡された。

 僕はあの工場を出てから、この家の中でずっと止まった時間を過ごしている。夫妻は僕を危険から遠ざけるため、学校にも仕事にも行かせなかった。だから僕はただ無為に時間を過ごしては、時折適当に理由をつけて外へと出かける。

 外出した際は、ふらふらと近所をぶらついて、図書館なんかで時間を潰すこともあった。

 だから、生まれ故郷であるクローン工場に行ってみたのも暇を持て余しての事だった。ちょっとした思い付きで、特に特別な思いもなく、ただ昔いた場所を見てみたいと思ったのだ。けれど、僕が思っていたよりもガラスの中と外は全く異なったものだった。初めての場所に来たような疎外感だけを抱いて、淡白に見学は終わってしまった。

 昼食をとっても、時間はまだまだあった。部屋に戻ることも考えないでもないけれど、なんとなくあの家は居心地が悪かった。

 いろいろと考えて、やはりいつも通り図書館で時間を潰すことにした。

 市内では一番大きなその図書館は、近代的な外装をしており、どこかあのクローン工場を思わせる。しかし、外とはうって変わって、内装はどうも古くさい感じがした。それは、古くなった本が漂わせる紙の匂いなのか、それとも図書館が持つ独特の雰囲気の所為なのか。僕には分からなかった。

 大きな本棚がずらりと並び通路を作る図書館は、僕にとっては落ち着く場所だった。本棚によって人の目が遮られるここは、僕にとって何も考えなくても済む場所だった。

 そして、僕がいつもふらりとここに訪れてしまうのには、もう一つ理由があった。

 入ってすぐにあるカウンターの横には児童書コーナーがある。そこには読み聞かせのために広くはないスペースがあった。

今日もそこには、名札を下げた一人の職員を中心に何人かの子供たちが集まっていた。少し離れた場所にはその子たちの母親らしき人たちがそれを観ている。

 僕は母親たちよりも遠くから、それを眺めていた。声はあまり聞こえなかった。しばらくして、職員が手に持った本をゆっくりと閉じる、まばらな拍手が起き、子供たちは母親の元へと散り散りになった。読み聞かせが終わったのだ。

 読み聞かせを終わらせた職員、この図書館の司書である東條つぐみ先生は手元にあるいくつかの絵本を片付けると、僕の方へ目を向けて、手招きをした。僕はそれに従い、彼女の元へ近づいた。

「今日も来てたんだね、『大槻』くん」

「はい。先生は今日も読み聞かせの担当だったんですね」

「うん、一番若手の人の仕事だから。あ、先生はやめてよ。歳そんなに違わないでしょ」

 東條先生は少し照れた様子でそう言うと、小さい子にするように人差し指で僕の額を小突いた。彼女は僕が製造年から一年のクローンであることを知らない。『大槻翔太』の外見設定である二十五歳として扱う。

 僕は自分がクローンであることを彼女に言えないでいた。

所有者である大槻夫妻の意向にそぐわない事をするのが憚られたというのもあるし、彼女に本当のことを言うのが怖かったからだ。

 特注クローンの外見は普通の人と見分けがつかない。

 けれど、法律的に、僕らは所有物として扱いを受ける。

 僕らは思うように生きることができる。法を破ったとしてもそれは僕たちの責任にはならない。持ち主の管理不行き届きとなり、責任は持ち主が負う。僕たちに責任能力はないとされているからだ。

 その反面、持ち主は僕たちを好きにできる。いつでも廃棄できるし、時間とお金は掛かるけど作り直すこともできる。

 だからクローンの所有者がクローン保険に入るのは常識で、大槻夫妻も毎月それなりの金額を保険業者へと支払っている。

 本当は僕がクローンであることは彼女に伝えなければいけなかった。法的人格のない僕は本来なら貸出カードを作ってはいけないのだから。でも、僕は嘘をついて、自分のものを作ってしまった。

 口ごもってしまった僕に対して、東條先生は首をかしげた。

 奇妙な沈黙に耐え兼ねて、僕は正直な思いだけを口にした。

「いえ、でも東條先生は僕にとっては先生ですから」

「もー……。で、今日は何のご用?」

 東條先生は沈黙への言及はしなかった。要件を聞かれた僕は、新着コーナーを指さした。本当は彼女に会いに来たのだけど、事実をそのまま口に出す勇気がなかった。

 東條先生は僕が新着コーナーへ目を付けたことに、嬉しそうに身を乗り出した。

「あら、本当? 今週は私があのコーナーの担当だったの。じっくり見ていってね」

 ひらひらと手を振って見送られて、僕は静かに児童書コーナーを離れた。もう少し話していたかったけれど、あまり仕事の邪魔をしたくなかった。

 新着コーナーには幅広いジャンルが置いてあったけれど、ふと一つの本へと視線が止まった。とある登山家が書いたエッセイ本だった。

 登山に興味は無かったけれど、大槻翔太が好きだったものだから、義務感に駆られて手に取った。

パラパラと中身を流し読みしていると、いつの間にか日が暮れ始めていた。今日はこれを借りて帰ろう。

 カウンターへ本を持って行くと、東條先生は手慣れた様子で貸出作業を終えた。

「意外、こういう本も読むのね」

 本を手に持って、彼女はそんなことを言った。そして、ふと思い出したように僕へと尋ねごとをした。

「そういえば大槻くんって、ご兄弟とかいるの?」

「兄弟ですか? いないですけど」

 唐突な質問に戸惑いながら答える。僕自身にとっては、同時期に出荷されたクローンたちは兄弟と言えなくもないが、『大槻翔太』は一人っ子だ。

 僕の答えに東條先生は、「ふーん」と少し納得のいっていない様子を見せた。

「最近、この本を読みに来る人がいるんだけど、君に似てたの。ぼさぼさで、のっそりしてて、うーん、ちょっと野性っぽかったかな」

 東條先生は酷く言葉を選んでいたけれど、なんとなくその人物の服装が随分と荒れていたことは察した。

 隣で作業していた他の司書の人が苦笑いを浮かべて、僕へと耳打ちした。

「気を悪くしないでね。最近、ホームレスっぽい人でよく来る人がいるの。ちょっと君に似ててね。身内の方だったら、知らせた方が良いかと思ったの」

 似ている人物、と言われて胸がざわついた。しかし、僕はやはり身に覚えがないと再び首を横に振った。

 図書館を出ると、外は既に真っ暗になっていた。街灯がチカチカとまばらに道を照らしている。

 本を入れた手提げかばんを下げて、帰り道を歩いていると、通り道の公園に段ボールとブルーシートを張り合わせた何かが目に入った。

 ……僕に似ているホームレス。本物の大槻翔太は失踪からの死亡扱いだ。死体は見つかっていない。

どうしても気にかかり、僕は公園へと足を踏み入れた。

微かにいびきが聞こえてきた。中に人がいる事が分かって心臓が跳ねあがる。緊張で強張る手を強引に動かして、静かにブルーシートを捲った。

 眠っていたホームレスの顔は、まるで鏡に写ったようにそっくりそのままだった。

 瞬間、確信を得た。こいつは本物の大槻翔太だ。生きていたんだ。

 僕が目の前にいることにも気づかず、眠り続ける彼を前にして僕はどうするべきか戸惑った。本物が見つかったとなれば、僕はどうなるんだろう。どうして彼は失踪したまま帰ってこなかったのだろう。

 どのみち彼が見つかったとなれば僕はお役御免だ。要らなくなったクローンは廃棄されるだろう。僕はもう二度と、図書館へは行けなくなる。

 では、彼を見なかったことにするか? そうしたところで意味なんかないだろう。既に図書館の人たちが、彼の存在に気付き始めている。彼が本物だとばれるのは時間の問題なんじゃないだろうか。そうしたら、東條先生はどうするだろう。このまま本物の方と仲良くなるんじゃないだろうか。

 僕は気付けば彼の首を絞めていた。目を覚ました彼が暴れても、強い力で絞め続けていた。目を覚ました彼が僕の顔を見て息を呑むのが分かっても、そのまま力をかけ続けた。

 ぐったりと抵抗がなくなり、手を離す。そのまま僕と彼の服装を取り換えると、まるで初めからそうだったように、倒れているのは先ほどまでの僕の姿だった。

 その光景を見た時、人を殺した後とは思えない高揚感を得た。

 これで僕は本物の人生を手に入れることが出来る。もう誰の所有物でもない。廃棄の恐怖に震えることもなければ、東條先生に嘘を吐く必要もなくなる。

 幸せが胸に満ちる感覚に耐え切れず、僕は跳ねるように家へと帰った。

 警察を呼ぶ必要は無い。だって、倒れているのは僕なのだから。クローンは物だ。壊しても所有者が訴えなければ、何の罪も成立しない。

 家に帰れば大槻夫妻は泣いて喜んだ。死んだと思っていた本物の息子が生きていたのだから。用済みのクローンが死んでも、彼らが悲しむ理由はどこにもない。『大槻翔太』の体を片付ける業者を呼んだだけで終わった。

 奇蹟の生還を果たした若き登山家と、その両親が入れ違いでクローンを製造してしまっていたという笑い話はちょっとしたネットニュースになって世間を騒がせたけれど、数日立てばすぐに鎮火してしまった。

 暫くして、本物の人生を手に入れた僕は浮足立って図書館へと足を運んだ。

 きっと東條先生は驚くだろう。でも、これで僕と彼女は対等になれたのだ。僕と本物の大槻翔太との要素は、僕がクローンであったこと以外同じだ。

 カウンターの前に立った僕へ、東條先生は驚いた表情を見せた。そして、いたたまれないといった顔で視線を逸らした。

 その仕草に、胸のざわめきを覚えながら、僕は貸出カードと本を手渡した。彼女は躊躇いがちにそれを受け取り、目を合わせないまま口を開いた。

「初めまして。私、ここの司書をしている東條つぐみと言います」

 はじめまして。ああ、そうか。僕らは初対面ということになってしまうのか。もどかしい気持ちに、つい戸惑った表情を浮かべると、話しかけられたことに驚いたと取ったのか、東條先生はさらに言葉を重ねた。

「……あなたのニュースを見ました。あなたのクローンと私、親しかったから、その、驚いてしまって」

 クローン、という言葉にちくりと胸が痛んだ。けれど頭を振ってすぐに嫌な感情を外へと追いやる。もう僕はクローンではない。大手を振って、どんな事も出来るんだ。

 もう自分にやましいところなんてない。彼女に対して嘘を吐く必要なんてないんだから。全部新しく積み上げていけばいい。今の僕はそれが出来るのだから。

「そうなんですか。でも、気にしないで大丈夫ですよ」

 僕は目いっぱい彼女を気遣ったつもりだった。

 けれど東條先生の表情は晴れなった。むしろ僕の言葉に尚更、顔色を悪くした。そして、手の平でその顔を覆った。

「……ごめんなさい。あなたは何も悪くはないんだけど、今はその顔を見るのが何よりもつらい。もう彼が帰ってこないのにそこにいるみたいで」

 エプロンにシミが出来たのを見て、彼女が涙を零していることに気付いた。僕は咄嗟に持っていたハンカチを手渡そうと差し出したけれど、彼女はその手を押し戻して傍に置いていたポケットティッシュで目を押さえた。

「ごめんなさい。今日は帰ってください」

 強い拒絶を感じて、手を引っ込める。戸惑うまま、僕は図書館を後にした。

 呆然と外に出て、想像と違う対応に驚きを隠せなかった。どうしてだろう。なぜ彼女はあんな風に悲しんでいたのだろう。

 事態を飲み込めないまま、街を歩く。

 気付けば『大槻翔太』が死んだ場所へと立っていた。自然と足が向いてしまったらしい。けれどクローンが死んだからと言って、その場には何もない。当たり前だ。

 なんでこんな無意味なことを、不可解な自分の行動に苛立ちながらその場を後にしようとすると、遠目にとある青年が視界に入った。

 不思議と既視感を覚えて、立ち止まる。

既視感を抱くのは当たり前だった。彼はよく見る労働者型クローンだった。町を歩けばいくらでもその顔を見ることが出来る。何人もいるその人物を見分けることは至難の業だ。

 けれど、僕はその彼が誰なのかが一目でわかった。

 あれは、『ガラス』の中でよく一緒に行動していた人物だった。

 もはや、遠い過去のものになってしまった無機質で清浄な空気がまざまざと思い出せた。ガラスの向こうにいた『人間』たちへ悪態をつく、気の強い同胞は僕の中に強く根付いていた。

 鼓動が早くなる。何か悪いことをした後のように、体が震えていた。息をひそめて、足を前へと進める。

 大槻翔太は彼を知らない。それならば、僕は彼を知っていてはいけないのだ。

 彼を見ると、強張った表情で俯いて歩いていた。一歩、また一歩と近づくたびに、自分の存在が少しずつ消えていっているような荒唐無稽な不安に襲われる。

 彼は気付くだろうか。クローンである僕が、本物に成り代わったことに。

 緊張する僕を他所に、彼はそのまま僕を通り過ぎて、持っていた花をその場に置いた。そして静かに涙を零していた。

 気付かれる恐怖はその瞬間に消えていた。

 泣いている。

 道行く人たちは不思議そうな表情を浮かべたが、泣いている人物がクローンであることに気付くと、当然のように何も言わずに立ち去っていく。

 彼は暫くして、涙を拭ってその場を立ち去った。ふと彼と目が合ったが、彼は僕の顔を見て一瞬目を見張ったが、すぐに顔を背けた。

 その瞬間、僕は強い感情に襲われた。

 彼が立ち去った後も僕はその場を動けなかった。

 僕は自分が『大槻翔太』として以外は生きられないと思っていた。決められた生き方しかできないし、そう生きること以外に僕の価値はないと思った。

 だから大槻翔太が生きていると知った時、迷わず彼を殺すことが出来た。

 けれど、彼の涙を見た時に、そして僕を見て顔を背けた時に、気付いてしまった。

あのガラスの中にいた時間。彼らと過ごした生活。名前もない、本物でもない、作られた紛い物の彼らと僕が、紛れもなく、自分自身の時間を過ごした場所。

 僕は、他の誰でもない僕として、彼らの中にいたことに気付いてしまった。

 大槻翔太を殺した時、僕が本物だと思っていた人生を手に入れた時に、本当に手にしたのは、僕にとっての偽物の人生だった。

 大槻翔太でも、僕でもない、誰の中にも僕は居ない。

 もうここには嘘しかない。

 もう彼に話しかけても、元の関係を手に入れることはできないだろう。東條先生にしてもそうだ。きっと同じ貸出カードを渡しても、前みたいに気さくには話してくれない。

 大槻夫妻も、ずっと僕に騙されて生きるしかない。彼らは偽の息子を本物だと思い込んで生きないといけない。

 そんな人生は耐え切れない。でも、正直に真実を口にしても、何も元には戻らない。

 ふらふらと来た道を戻る。けたたましい音がいくつも重なって鳴り出した。ガラス越しに血相を変えた人物と目が合う。

懐かしい。

 僕が目を細めた瞬間、フロントガラス越しに合っていた視線はその人物がきつく目をつぶりハンドルを大きく切ったことで途切れてしまった。鉄の塊がぶつかる強い衝撃に襲われて、体が宙に浮く感覚がした。

 意識が遠のく中、沢山の野次馬が集まっているのが分かった。霞む視界の中、騒動に気付いて戻って来た彼と目が合った。

 蒼白な顔で、震えて立っていた。先ほど逸らした顔は、後悔に苛まれた表情に変わっていた。

 ――やった。最後に戻れたぞ。

 嘘がバレたことに、僕はほっと胸をなでおろした。

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