「おはよう」から「おやすみ」まで
霧散していた意識が集まり、ゆっくりと、見えているものが何かを理解した。
チカチカと輝く朝日。はっきりとした眩しさを感じないのは、まだ瞼を閉じているからだ。
腕をもぞもぞと伸ばし、頭上にあるだろう物を探す。
目的のものはすぐに見つかり、それを掴んだ手を眼前まで持ってきてようやく、わたしは目を開いた。
9時43分。
平日に比べれば随分と寝坊だが、予想していたよりはずっと早くて少し安心する。
ベッドを揺らさないようにそっと身を起こすと、隣でシーツに包まっている彼女の寝顔が目に入った。
いつ見ても整った顔立ちと、耳を近づけなければ聞こえない、微かな寝息。
初めは本当に生きているのか心配になった光景だが、それを微笑ましく思えるようになったのは、この状況にすっかり慣れてしまったからなのだろう。
そう考えて若干気恥ずかしさを感じつつ、足音に気をつけてフローリングへ降り立つ。近くに落ちていたショーツとシャツを拾い上げてから、わたしは浴室へと向かった。
わたしと彼女──ゆかりさんが出会ってから二年以上が過ぎていた。
わたしは予定通り、高等部へ進級して現在二年生となり、ゆかりさんは一部必修単位を落としかけたものの、無事三回生となり、相変わらず暇があればぼんやりと外を眺めている。
少し変わったことといえば、部屋に荷物が増えたこと、二人でよくご飯を食べるようになったこと、わたしの部屋を訪れる頻度が減ったこと、代わりに時々泊まるようになったことなどが挙げられる。
部屋に泊まるのは月にだいたい二、三度くらいで、土曜日の午前中まである授業を受けてから、家には帰らず、そのまま訪ねることが多い。そして翌日の夕方頃に帰るという流れが習慣となっていた。
本当はもう少し帰宅時間を遅くしてもいいのだが、毎度、買い出しのついでに、と駅まで送ってくれるようになったゆかりさんの帰り道が心配で、日の高いうちに部屋へ戻れるよう逆算したら、そんな時間になってしまった。
以前はそんなに、わたしのことなんて気にしてなかったんだけど──冷蔵庫を開けて、昨日買ってきた卵とベーコンを取り出しながら、ゆかりさんの変化について考える。
出会った頃の彼女はもっと、色々なことに対して関心が薄いように見えた。どこか超然として、周囲の人間を背景の一部としてしか認識していないような、そう思わせる雰囲気を彼女はいつも漂わせていた。その背景の中には当然わたしも含まれていて、少なくとも今のように、わざわざ駅まで見送りについてくるような関係ではなかったのだ。
それがどうしてこんな風になってしまったのか。
髪を簡単に束ねながら考えを巡らせてみたが、思い当たる可能性がひとつしか出てこないあたり、わたしはよほど自惚れているのだと思う。
自分のおめでたい思考を頭から掃き出しつつ、熱したフライパンに油を引く。すかさずベーコンを敷いて、その上に卵を落とし、焦げ付かないように火加減を調整していると、視界の端にもぞもぞと動く物が見えた。
「……ベーコンエッグですか?」
少し掠れた声に振り返ると、シーツを被ったゆかりさんがペタペタと側まで歩いてくる。いつもの凛々しさはどこへ行ったのか、眠気が抜けきっていない眼差しと、寝癖のついた髪が普段の印象から彼女を遠ざけている。
そんな気の抜けた様子を見せる一方で、シーツを纏った身体は下着を付けていないらしく、間から覗いた肌にわたしはギョッとした。自分の分を拾う時に、彼女のものもその辺にあったはずだが、着るのが面倒でそのまま起きてきたのだろう。
いくら部屋の中でも、それは、その……。
釘付けになってしまったわたしの視線に、何を勘違いしたのか、彼女は至近距離まで身を寄せてきた。
「え、な、なんですか」
「いえ、ちょっと」
言いながら、彼女のしなやかな細い腕がわたしの腰へと回される。その拍子に肩にかかっていたシーツがはだけて、滑らかな首筋が、鎖骨が、眼前で露わとなった。
「ずいぶん扇情的な格好をしているな、と思いまして」
どっちが、と叫びたくなったが、ゆかりさんの視線がわたしの首筋から胸辿り、腿へと降りていくのに気がついて、反射的に身を引いた。
しかし一歩遅く、彼女にあっさりと抱き竦められてしまう。
「ちょっと!」
「まあまあ」
「いや、火! 危ないですから!」
わたしの抗議を受けて、彼女の手が素早くコンロの火を止める。
「止めましたよ」
「いや、止めればいいってわけじゃ、」
言い終わるより早く、ゆかりさんの手がシャツの裾から滑り込んできた。慌てて身体を離そうとしたが、そのまま腰を撫でられ、背中を駆け上がるざわめきに一瞬動きを止めると、今度は首に口付けられた。
「んっ」
鼻にかかった声が出て、思わず口を押さえる。その間にも彼女の唇は首筋を辿り、耳を食み、縁を舌でなぞる。差し入れられた手はその曲線を確かめるように、腰を、脇腹を、強弱をつけながら撫で上げていく。
頭の芯がぼやけていく感覚に、これ以上はまずい、と先週の流れを思い出したわたしは、意志の力を総動員してゆかりさんを引き剥がした。
「今日は、買い物行くって、約束でしたよねっ?」
「ええ、なので、あと少しだけ」
「ダメです! それ、この前もやって、行けなかったじゃないですか! 今日はダメ! 絶対ダメ! Don’t touch me!!」
「えぇー……」
不満そうに口を尖らせるゆかりさんを、わたしは威嚇する。しばらく無言の睨み合いが続いたが、やがて彼女が折れて、トボトボと浴室へ向かい始めた。
「あ、ついでにシーツ洗濯しちゃってくださいね。干しますから」
はい、と少し萎んだような声が返ってきて、やれやれとわたしは息をついた。
最近はだんだんと落ち着いてきたものの、時折こういうやり取りが勃発する時がある。別に嫌なわけではない。むしろ積極的なのは大歓迎なのだが、主導権を握られ続けているのが、少しだけ面白くない。
「いつか、いつか泣かす……」
昨夜の記憶を脳裏に蘇らせつつ、わたしは仄暗い野望を胸に抱き、コンロに火をつける。冷めかけていたベーコンエッグは熱を取り戻して、沸々とその身を震わせていた。
ゆかりさんの部屋から電車で四十分。駅から直通の商業ビルは休日ということもあり、多くの人で賑わっていた。
「それで、何を買うんですか?」
先陣を切る私の後ろから、すでに人酔いし始めているゆかりさんのぐったりとした声が聞こえてくる。エスカレーターのステップに一歩踏み出してから振り返ると、案の定、憂鬱そうな瞳がわたしを追ってくる。
「お鍋です!」
高らかな宣言に、ゆかりさんは目を細めている。
「鍋って……うちにあるやつじゃダメなんですか?」
だいたい予想通りの反応が返ってきたので、わたしは軽く咳払いをする。
「あれは普通のお鍋で、わたしが欲しいのは圧力鍋です」
「……ああ、ロールキャベツとか短時間で作れるという、あの?」
そう、その圧力鍋である。
いま使っている鍋は、わたしがまだ中学生の時、ゆかりさんを説得して購入したステンレス製の両手鍋だ。これで今までシチューや角煮などを作ってきたのだが、煮込み系の料理にかかる時間が長く、ガスコンロを塞いでしまうのがネックだった。あと、ゆかりさんはあまり気にしていないようだが、光熱費も結構かかってると思う。いくら家主が食べるからとはいえ、他所のお宅に経済的な負担をかけるのは大分気にかかる。
そういった事情から、今年はこそ寒くなる前に圧力鍋に挑戦しようと決心したのだった。
話し終えたゆかりさんは、なるほど、と言いながらも首を傾げている。
「理由は分かりましたが、しかし、少し早過ぎませんか……?」
そう尋ねるゆかりさんの本日のお召し物は、半袖の白地のシャツに黒い薄手のロングカーディガン、アンクルカットのデニムというシンプルな出で立ちだ。わたしは紺色のマキシ丈ワンピース。残暑もだいぶ緩んできたとはいえ、まだ鍋物には少々早いかもしれない。
しかし。
「でもゆかりさん、寒くなってからだと買い物がもっと面倒になっちゃうでしょ?」
「ぐうの音も出ない」
あっさりと自分の怠惰さを認める二十歳児。出会った頃から全体的にやる気のない人だったけど、こういうところはやっぱり変わらない。それを強く指摘しないわたしも、わたしだけど。
いつものお澄まし顔に追求はやめて、それに、とわたしは話を軌道修正する。
「わたしも今の内に使い慣れておきたいですし、思い立ったが吉日ですよ」
美味しい料理は一日にしてならず。まだまだ得意と言えるレベルに達していないわたしは、レパートリーも乏しく納得できる出来になるまで練習が欠かせない。特に使ったことがない調理器具には、使い方やお手入れの仕方など色々と不安があるのだ。
どうせ作るなら美味しいものを食べたいし、食べてもらいたい。そう思うのは自然なことじゃないだろうか。
ゆかりさんは納得したのかしていないのか、よく分からない表情でわたしの横を歩いている。
「まあ、思い立ってから一週間経ってますけどね」
いったい、誰のせいだと思ってるんですかねえ。
鍋のコーナーは思っていたよりすぐに見つかった。機能性にこだわったシンプルなものから、見た目も重視したカラフルなものまで、サイズも合わせて様々な商品が並んでいる。
わたしは目的の圧力鍋が陳列されている棚を見つけると、蓋を開けてサイズをチェックしたり、メーカーを端末で調べてみたりと比較、検討を始めた。ゆかりさんはしばらくその辺にあったタジン鍋を眺めていたが、飽きてしまったのか、ふらふらとどこかへ姿を消した。いやまあ、分かっていましたけども。
それから小一時間ほどかけて、店員さんにも話を聞きつつ候補をいくつかに絞る。最終的にアルミ製のオモリ式圧力鍋に決めた。タイマー付きで容量は四.五リットル。作り置きもできるサイズだ。
さて、そろそろゆかりさんを呼ぼうと思っていたところで、向こうからふらふら歩いてくる人影があった。
「タイミングばっちりですね」
「ということは、どれにするか決まったんですね?」
ええ、と答えつつ鍋を見せる。ゆかりさんは顎に手を当て、しげしげと差し出されたものを見つめた。
「随分悩んでいたみたいですけど、これはどういう基準で選ばれたんですか?」
「ええっと……まずオモリ式とスプリング式というのがあって、初心者は音が出るオモリ式の方が加圧されたかどうか把握しやすいらしいです」
その分蒸気が出るようだが、ゆかりさんの部屋の構造上、キッチン部分と部屋の間にあるドアを閉めれば臭い移りは大分防げると思う。あとは、アルミ製とステンレス製、多層式と三種類あって、アルミ製は時短向きだが冷めやすく、逆にステンレス製は冷めにくくて煮込み料理に向いている。多層式はその両者をバランス良く取り入れていることを説明した。
「じゃあ、多層式の方が良いのでは?」
当然の疑問が返ってくる。ただ、性能が良いものが一番良いというわけでもなく、例えばアルミ製は軽くて取り扱いがしやすい。今使っているステンレス製の鍋は、洗う時に少し重くて洗いにくかったりする。多層式はアルミとステンレスの両方の素材を使うので、当然アルミ製よりは重くなるのだ。
あと、一番の問題だが……。
「予算オーバーなんですよね」
同じ条件の多層式圧力鍋を横目で見る。性能が良ければその分価格が上がるのは当たり前のことなのだが、学生にとってはその差が割と大きい。安価なものもあるにはあるのだが、あまり安すぎるものは保証がつかないし、長持ちしないものもある。できれば、長く使えるものを選びたいところだ。
わたしの話に、ゆかりさんは心底不思議そうな顔をした。
「何故、あかりさんが費用を負担することになっているんですか?」
その言葉を聞いて、咀嚼して、わたしは疑問符を浮かべた。
「え、だって使うのわたしですし」
「でも、食べるのは私ですよね?」
「それは……けど、わたしも一緒に食べますし、ゆかりさんだけが食べるわけじゃないでしょう?」
「それはそうでしょう。むしろ、あかりさんが私の分だけ作る方がおかしいと思いますが。それに調理だけではなく、材料の用意など手間もかけて頂いているわけですし、私が費用を負担するのは当然ではないでしょうか」
「うん? いやでも、いつも材料代はゆかりさんのお財布から出ているわけで……」
「ええ、なので鍋代も私が出す方が自然な流れですよね?」
「いや……だって、それは……」
「では、ここは私が支払うということで」
そう言って話を切り上げると、ゆかりさんはわたしが横目で見ていた多層式圧力鍋を持ってレジへと向かう。慌てて抱えていた鍋を元の位置に戻し、わたしはその背中を追った。
「じゃ、割り勘。割り勘にしましょう。ね?」
店員さんに鍋を手渡すゆかりさんの横に滑り込み、わたしは思い付いた妥協案を提示した。我ながら良いアイディアだと思う。
しかし。
「私、割り勘って嫌いなんですよね」
そう言ってゆかりさんは寸分の躊躇いもなく、財布からカードを取り出した。
「一回でお願いします」
「なんでそんなに頑ななんですかー!?」
そして、わたしの嘆きもどこ吹く風、さっさとお会計を済ませてしまうのだった。
どこか満足げなゆかりさんの隣で、わたしは釈然としない気持ちを抱えていた。
「さて。せっかくですから、お茶でもして帰りますか」
来た時はどんよりとした顔をしてたくせに、今は鼻歌でも歌い出しそうな声音である。対してわたしは黙々とゆかりさんについて歩く。端的に言うと、すごく腹が立っていた。
今更文句を言ったところで、鍋の支払いは済んでしまっている。だから、せめて半額は出させてほしいと再度申し出たのだが、ゆかりさんは頑として受け取ってはくれなかった。彼女の言っている理屈は分かる部分もあるのだが、結局わたしが子供だから代わりに出してもらったみたいで、それがたまらなく嫌だった。別にお金を出してもらうために、一緒に来たわけではないのに。
せっかくのお出掛けだというのに、モヤモヤとした気持ちばかりが膨らんでいる。このままでは良くないと分かっていながら、気分を切り替えるきっかけが掴めないまま、わたし達はふらふらと当てもなく歩き回っていた。
そうして服屋さんがいくつか並んでいるのを見るとはなしに眺めていると、一軒、他の店舗より目を引くお店があった。
「──ランジェリーショップですか」
背後から耳元で呟かれ、わたしは反射的に飛び上がった。驚いて振り向くと、ゆかりさんは感心したように微笑んでいる。
「あかりさんもそういうお年頃ですものね」
「何の話か分かりませんけど、目立ってたから見てただけで、興味があるわけじゃないですからね」
なんだか嫌な予感がして、行きませんよ、と先回りをする。
「でも、お洒落に興味はあるのでしょう?」
「まあ、人並みにはありますけど……」
「わざわざパンプス持って泊まりに来るくらいですしね」
ぐっと喉の奥が鳴る。なんでそういう気づかなくて良いところに気づくんだろう。
だって、この服にローファーは合わないのだ。家の中で過ごすだけならワンピースだけで十分だったけど、今日はお出掛けしようと決めていたし、この人の横を歩くならそれに合わせた靴が必要だった。
「先週もですけど、今日着てるワンピースも、いつものより少し大人っぽいですよね」
「べ、別に普通だと思いますけど?」
「素敵ですよ、とても」
なんでこのタイミングでそういうこと言うかな。
「普段の服装も可愛いですけど、大人びた服も似合うようになったんですね」
うんうん、とゆかりさんは感慨深げに頷いている。
「服の好みが変わると、下着も合わせたくなってきますよね」
「なりません」
「あら、あんなところに専門店が」
「行きませんって」
「じゃあ、こうしましょう。私があかりさんに似合うものを選びますので、あかりさんは私に似合うものを選ぶ」
「え……」
「あ、今ちょっと興味湧きました?」
ゆかりさんが口端を上げる。しまったと思ったが、すべては後の祭りだ。
わたしの抵抗も虚しく、ゆかりさんに手を取られてずるずるとお店に引かれて行く。
「あの、わたしの手持ちじゃ絶対足りないと思うんですけど!」
「大丈夫、ここは私の奢りです」
だって、と訊いてもいないのに、ゆかりさんは顔を寄せてくる。
「どうせ脱がすのは私ですしね」
扉を潜る一瞬、昨晩嫌というほど見た表情で彼女はそう囁いた。
わたしたちが喫茶店でゆっくり腰を落ち着けたのは、それから約二時間後のことだった。
「ダブルシフォンパンケーキのチョコレートソースを一つ、アイスカフェオレを一つ、アイスティーを一つ、以上でよろしいでしょうか?」
オーダーを確認する店員さんに、はい、と返事をしてメニューを元の位置に戻す。店員さんが調理場に入って行くのを確認してから、わたしは倒れるようにソファに凭れかかった。
「お疲れ様でした」
ぐったりと脱力しているわたしとは対照的に、ゆかりさんはしゃんと背筋を伸ばして上機嫌に微笑んでいる。内訳はよい買い物ができたこと半分、わたしの反応が愉しめたこと半分、といったところだろうか。いや、四対六くらいの割合かもしれない。
わたしはゆかりさんの笑顔を睨め付けながら、お冷にちびちびと口をつけた。
先ほど入ったランジェリーショップは、どこを見ても眩しくて、ただただ目のやり場に困るお店だった。
自分は明らかに客層から外れた場違いな人間だという過剰な自意識に苛まれて、あれよあれよという間にゆかりさんのペースに乗せられてしまった。お店の人にフィッティングをしてもらい、自分が思っていたサイズと違ったことに驚いたり、正しい下着の付け方を教えてもらったり。初めてのことだらけで、お店にいる間中あわあわしていた気がする。
一番驚いたのは、フィッティングする前にゆかりさんが私のサイズを把握していたことだが、そこは深く考えないことにした。
「というか、結局ゆかりさんの分は買いませんでしたね」
今更のように思い出して、ソファから身体を起こす。ゆかりさんは、ああ、と思い出したように苦笑した。
「そういえば、そういう話でしたね。……今からお店に戻ります?」
悪戯っぽく覗き込まれて、わたしはブンブンと首を振った。ゆかりさんは堪えられないといった様子で、くつくつと笑っている。
「じゃあ、またの機会にお願いするとしましょうか」
肩を震わせているゆかりさんに、わたしは口を尖らせて見せる。
見せているだけ。本当は怒ってなんていない。今日はよく笑う彼女が見られて、すごく満足している。
そのタイミングで、先にアイスティーとアイスカフェラテが運ばれてきた。ゆかりさんがアイスティー、わたしがカフェラテを受け取る。そのまま会話が途切れて、ゆかりさんは文庫本を取り出し、わたしは端末をいじり始める。
その既視感を、わたしは密かに笑った。お互いにゆかりさんの部屋にいる時と同じようなことをしている。
出会った頃から約二年。つまるところ、わたし達は根本的に変わっていない。どんなに顔を合わせても、一緒にご飯を食べるようになっても、何度キスをして肌を重ねても。ゆかりさんはわたしのことを好きになったわけではない。
ゆかりさんは二年経った今でも色々なことに関心がない。わたしが食べて欲しいと言うから一緒にご飯を食べてくれるし、触れて欲しいと言うから抱いてくれるだけ。働きかけられることがなければ、あの椅子に座って日がな一日、お白湯を片手に外を眺めている。
ただ、少しだけ変わったことがあるとすれば、あのどこか遠くを見つめている空虚な瞳が、時折わたしを見てくれるようになったことだけ。多分それは好意と言うにはだいぶ性質が違っていて、例えるなら季節の移り変わりを肌で感じたり視覚的に気付いたりといった、現象に近いものではあったけれど。そのささやかな変化が、わたしを捉え、満たしてくれる。
家族や友人達がこの不毛とも言える付き合いを知ったら、きっと心配してくれるに違いない。あの人の側にいても幸せにはなれない、と親切心で助言してくれることだろう。
けれど、出会えなかった頃の自分なんて、もう思い出すこともできないから。
朝起きて夜眠るまで、この人のことを一時も考えずにはいられないから。
たとえ気持ちがなくても、その目が時々わたしを見てくれるから。
わたしはこの人の側を離れることができないのだ。
「お待たせしました、ダブルシフォンケーキをお持ちしました」
店員さんの声に、わたしは思考の海から一気に浮上する。ふわふわの厚いパンケーキを前につい腕まくりをすると、ゆかりさんが、ふふっと声を漏らす。
「一口いります?」
「いえいえ、お気持ちだけで十分です」
一口サイズに切り分けてそのまま頬張ると、シフォン生地の柔らかさとチョコレートの甘味が広がって、思わずにんまりとしてしまう。
「本当にあかりさんは好きですよね」
省略されたであろう言葉はきっと食べ物のことだっただろうけど。
わたしはゆかりさんを正面から見つめ返し、こう答える。
「ええ、とっても。大好きですよ」
水平線のその先で 空閑夜半 @yahan_k
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