愛には程遠い
今日、行ってもいいですか?
『どうぞご自由に』
「むふっ」
自分の口から気持ちの悪い笑いが出て、思わず口に手を当てる。ちらりと周囲を見回したが、こちらを見ている子はいない。ほっと胸を撫で下ろしつつも、油断すると頬が緩んでしまいそうで気が抜けなかった。
例の謹慎が明けた本日。わたしは端末に残った朝のやりとりを見返しては、この動作を繰り返していた。何度確認しても内容が変わったりすることはないのだが、黒板の上の時計の進みが今日は一段と遅い気がして、気を紛らわせようとつい意味のない動きをしてしまう。まだお昼休みだというのに気持ちだけが疾って仕方がなかった。
「今日はあかりちゃん、朝からご機嫌だねえ」
購買部から戻ってきた前席の友人Aが、のんびりと自分の机を反転させながら、わたしの隠しきれない喜色を感じ取って微笑みかけてくる。
「何か良いことでもあったの?」
「ええっと、良いことっていうか、その……」
言い淀みながら、なんて答えればいいのか非常に困った。家族は勿論だが、彼女を含む友人達にもゆかりさんのことを話していない。別に禁止されているわけではないけれど、高頻度で赤の他人の家に通い詰めている経緯を話すのがなんとなく、主にわたしの初期の行動面に問題がある気がして、躊躇われたためだ。そして今、このタイミングで話すつもりもないので、この場はなんとかして誤魔化さなくてはならなかった。
しどろもどろになっていると、予期せぬ助け舟が隣席から机ごと現れた。
「分かった。今日はお弁当に好きなおかずが入ってるんでしょ?」
友人Bがにっと歯を剥き出しに笑顔を向けてくる。反射的に、違う、と返しかけて寸でのところで言葉を飲み込んだ。否定したところで、他に説明できる理由が思い浮かばない。
「じ、実はそうなの……」
「ね、あたしの言った通り!」
「そっかあ、よかったねえ」
二人のほのぼのとしたやりとりに安堵しつつも、内心ちょっと複雑な気分になる。わたしのイメージとは一体……。
納得できない思いを抱えながら、三人揃ったところで手を合わせる。三年に進級した初日、なんとなくで集まったグループだが、今のところ目立った衝突はなく落ち着いて過ごせている。今年の担当教諭はテストごとに席替えをする人らしいので、定期テストが終わったら多分席は離れてしまうだろうが、このメンバーでお昼を過ごすことに変わりはなさそうだ。
どちらかと近いところになればいいんだけど、と考えながら、その前に待ち受けているテストに思い至ってげんなりとご飯を咀嚼していると、騒々しくクラスメイトの一人が教室に駆け込んできた。彼女は一緒に行動しているグループの輪に入ると、前のめりになって口を開く。
「やばいよ、隣のクラスの〇〇さん、大学生と付き合ってるんだって!」
興奮気味に同グループの子に話している声が周囲に響き渡っている。その話を聞いて周りの子達がその声の大きさにか、あるいは内容にか、ある人は驚き、またある人は顔を顰めている。
「……大学生だって」
声が聞こえただろう友人Aが、少し驚きながらわたし達の顔を交互に見る。
「げえ、犯罪じゃん」
友人Bは露骨に顔を顰めた。嫌悪感を隠しもしない。
「そういうのって、あれでしょ。同年代から相手にされないから年下に手を出すってやつじゃん。最悪だよ」
「でも、お互いちゃんと好き合ってるのかもしれないし」
友人Aが困ったような顔をしている。
「愛があれば歳の差なんて関係なくない?」
「いやいやいや、十年そこそこしか生きていない中学生が、愛とか言っても説得力ないって。どうせ思春期にありがちな一過性の気持ちだーとか言われるんだよ」
吐き捨てるように言う友人Bを少し意外に思いながらも、わたしは自身とゆかりさんのことを考えていた。
別にわたし達は付き合っているわけではない。もっと正確にいうと、わたしが一方的に好意を抱いているだけの状態だ。
だけど、それだって周りの人から見たらこんな感じに思われたりすることもあるのだろうと思う。さらに見る人によっては、ゆかりさんがわたしを誑かしたと捉えられることもあるのかもしれない。事実がどうであれ、噂は勝手におおよそ良くない形で広まっていくものだ。
もし、その噂が友人達や家族の耳に入ったら、彼らはどういう反応をするのだろう。周囲の人たちはわたしがゆかりさんと会うことに良い顔をしないような気がする。
そうなったら、わたしはもう、あの部屋へは行けなくなるのだろうか。
「あかりちゃん?」
呼び掛けられた声にハッとして顔を上げると、二人が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫? 保健室行く?」
いつの間には俯いていたわたしを気遣うように、友人Aが付き添いを申し出てくれる。彼女には年齢のことには触れなかったが、以前病気で入院したことがあると話してある。もう元気になったから問題はないとも伝えたのだが、以来少し様子がおかしいと心配して声をかけてくれるようになってしまった。
彼女の気持ちにお礼を言って、ちょっと考え事してただけだからと答えると、少し安心したように微笑まれた。
「そう、ならいいけど……」
その横で友人Bもわたしを励ますように笑う。
「嫌いなおかずあったら言いなよ? あたしが食べてやるからさ!」
キミはとりあえず、お弁当から離れようか。
一週間ぶりに部屋を訪れると、それまで見かけたこともなかった緑の丘が、窓辺でぬくぬくと日光浴をしていた。
「こ、これは……」
わたしは膝から崩れ落ちそうになりながら窓辺へ歩み寄ると、その丸く膨れた物体に手を伸ばした。
全体はふわふわと柔らかく、表面のしっとりとした手触りが癖になりそうな心地良さ。大きさは直径七十センチメートル程度で、モスグリーンの色彩が殺風景なこの部屋でなけなしの安らぎを演出している。
「なんでクッションが!?」
背後に振り返りながら叫ぶと、デスクチェアでゆったりと寛いでいた家主が首を傾げた。
「なんでと言われましても。何か問題でも?」
「問題大アリですよ! え、いつ買ったんですか、これ。先週?」
「元々ありましたけど」
あっさりと驚愕の事実が告げられる。この部屋にクッションなどという、特に無くても困らないものが存在していたなんて。それ以上に気になったのは、今になってどうしてこれが、こんなところに置かれているのかという点だ。
疑問をそのままぶつけたら、わたしが謹慎していた間に大学の同じゼミの人が遊びに来たのだという。その時とっさに取り出したのがこのクッションで、引っ越しの際に持ってきてはいたそうだが、使う機会がなくそのままクローゼットの肥やしになっていたらしい。
「それでまあ、大いに活躍してもらったわけですが。そのまま仕舞うとカビとかダニとか心配だったので、念のために天日干ししていたんですよ」
そう淡々と返されて、わたしは今度こそ床にへたり込んだ。
クッションがあったこともそうだが、この部屋に自分以外の誰かが遊びにきていたということにも、少なからず衝撃を受けていた。ただ、今まで鉢合わせにならなかっただけで、その誰かはもう何度もこの部屋を訪れていた可能性もある。
ゆかりさんにも仲の良い友人はいるだろうし、それに赤の他人であるわたしが、ゆかりさんの人付き合いに口を挟むのはおかしい。いいやむしろ、わたしの優先度なんて、部屋の隅に落ちているホコリ以下だったりするのかもしれない。
……うわ、この考え方はやめよう。自尊心が下がる。
そんなわたしの内心になど興味を示さないゆかりさんは、それにしても、と口端を上げている。
「いつか使うかもしれない、と持っていた物が役に立つこともあるんですね。大体はいつまで経ってもその“いつか”は訪れず、無意味に部屋を圧迫するイメージがありましたけど。……何にせよ、今回はお客様を床に座らせずに済んで助かりました」
その珍しくご満悦な様子は、無性にわたしの神経を逆撫でした。
「へえ。まあ、わたしはずっと床でしたけどね?」
言ってから、すぐに後悔した。その嫌味ったらしい言い方もそうだが、これではわたしが拗ねているみたいじゃないか。いや、実際すごくモヤモヤしているけども。
そもそも、ここへはわたしが一方的に遊びに来ているだけで、ゆかりさんが気遣う必要なんて初めからない。それでいいと自分でも納得していたのに、こんな些細なことで勝手にいじけて、子供っぽい態度をとってしまうなんて。
完全な失態にどう挽回すればいいか分からず、手に持ったクッションを無意味にこねくり回していると、いつの間にか側に来ていたゆかりさんからクッションを取り上げられた。
「だって、あかりさんはお客様じゃないでしょう?」
きっぱりと言い切られて言葉に詰まった。分かっていても当の本人から口に出されると、想像より胸が痛む。
ゆかりさんはわたしの様子なんて気にも留めず、手で軽くクッションの形を整えている。
「言っておきますが、私は週の半分近く襲来する人を“お客様”とは呼びませんし、こんな部屋によくもまあ飽きもせず通って、あまつさえ勝手に寛いでいる人をお客さん扱いする気になんてなりません」
ゆっくりと立ち上がった彼女は、座り込んでいるわたしを苦笑気味に見下ろした。
「少なくとも、あなたをそんな風に見ていたら、私の方が気疲れしていたでしょうね」
それから部屋の隅に整えたクッションを置いた。わたしがいつも座っている場所に。
「けどまあ。うら若き乙女を、いつまでも冷たくて硬いフローリングに座らせておくのも酷でしょうから、このクッションはそのまま置いておくことにしましょう」
ゆかりさんがポンポンとクッションを叩いて、わたしに同意を求めるように振り返る。
それって、つまり。
「ゆかりさんにとって、わたしは特別ってことですね?」
「あなたのポジティブさは本当に凄いですね」
「いわゆる、ヴェルタースオリジナル」
「孫が爆誕してしまいました」
ゆかりさんはおばあちゃんになっても綺麗だと思います、とは言わない。流石に十代でおばあちゃんになった時のこととか言われても反応に困るだろうし。
とはいえ、会話が途切れるといつものゆかりさんに戻ってしまうので、もう少しお話しするために、今日の出来事を記憶の中から掘り出してみる。
「ところで、ゆかりさん。わたしが大学生とお付き合いしてたら、どう思います?」
「はい?」
唐突な話の転換に、ゆかりさんが首を傾げる。わたしはお昼休みのことを端的に説明した。
「なるほど。……お付き合いの内容如何によっては条例的な意味でアウトですね」
「愛があっても?」
「そういうルールですから」
言い切られて、むう、と唸る。そういうことが聞きたいんじゃないんだけどな。
「じゃあ、ゆかりさんはどう思います? その〇〇さんと大学生のこと」
「特に何も。会ったこともありませんし」
デスクチェアに座りつつ、安定の無関心。それなら、とわたしは慌てて人差し指を立てる。
「じゃ、わたしだったらどうです?」
「……それ、遠回しに交際を要求してます?」
「してません!」
それともそれ、してもいいってこと!?
……いや、多分そういうことではない、はず。この人の場合、遊んでるのか本気で聞いてるのか、分からないから微妙に困る。
少し深呼吸をして、話を元の方向へ戻す。
「わたしが、ゆかりさん以外の大学生と、です」
ゆかりさんの僅かな変化も見逃すまいと、真っ直ぐに見つめる。ゆかりさんは顎に手を当てて少し考えると、わたしの視線を受け止めてくれる。
「ご想像にお任せします」
「逃げた!」
というか、ご想像にお任せしていたのはわたしの方だったはずじゃ……。
わたしの不満げな声を聞き流し、ゆかりさんは上機嫌にくつくつと笑いながら、すっかり冷めてしまったであろうマグカップを傾けていた。
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