第51話 イルカに近づいてはいけません⑥

 瑠衣ちゃんは約束通り海水浴場から少し離れた岩場で待っていた。


 念のため周囲を見回してみるが、特に人影は見当たらない。


 どうやらナンパなどの被害には遭わずに済んだようだ。


「瑠衣ちゃん!」


 岩場にしゃがみ込んで海の中をじっと見つめている少女の名前を呼ぶ。


「……あ! 勇吾くん!」


 彼女もオレに気づいたようで、笑顔で駆け寄ってきた。


「お待たせ。とりあえずこれで水分補給してくれ」


 手提げバッグの中からミネラルウォーターを取り出し、彼女に手渡す。


「ありがとう、勇吾くん」


 ペットボトルを受け取ると、瑠衣ちゃんはフタを開けて中に入っている水を少しずつ飲み始めた。


 それを確認してから、もう一本のペットボトルを取り出してオレも水分補給を始める。


 しばらくオレたちは波の音に耳や磯のにおいを感じながら、冷たいミネラルウォーターで喉の渇きを潤していた。


 そうして半分ほど飲み終わった頃……


「……ん? あれ何だろう?」


 瑠衣ちゃんが何かを見つけたらしく、海の方を指差した。


 その方向に視線を向けてみる。


「あれは……サメの背びれか?」


 そこにはサメらしき生き物の背びれが海面から出ていたのだ。


 背びれから下は海中に隠れているため見えないが、何らかの生物が元気に泳ぎ回っていることは確かだった。


「こんな浅瀬を泳いでいるなんて……どこかから迷い込んできちゃったのかな?」


「まぁ、サメだとしたら浅瀬を泳いでてもそんなに不思議じゃないけど……」


 普段は外洋を泳いでいるようなサメでも種類によっては近海にやって来ることもあるので、この辺に出没したとしても別に不思議なことではない。


 だが、すぐ近くに海水浴場があるので本当にサメなら危険だ。


 人が襲われる前に早急に誰かに伝えた方がよいかもしれない。


 そんなことを考えていると、その生物が海中から顔を出した。


「……あ! 勇吾くん、あれ見て!」


 瑠衣ちゃんが再び指を差す。


「あれは……イルカか?」


 海中から顔を出したのは、何とも愛らしいイルカだった。

 

 どうやらサメではなく、イルカの背びれだったらしい。


 とりあえずサメではないことがわかって少しほっとした。


「可愛い〜!!」


 その可愛らしさに惹かれ、海の中に入ってしまう瑠衣ちゃん。


 このあたりは非常に浅く、水深も膝くらいまでしかないので、海水をかき分けどんどんイルカの方へ歩いていってしまうのだった。


「お……おい、瑠衣ちゃん! そいつたぶん野生のイルカだぞ?」


 どこかの水族館から脱走した可能性もゼロではないが、普通に考えたら野生のイルカだろう。


 そうだとすれば、人に慣れていないはずなので非常に危険だ。


 いや、仮に水族館のイルカだったとしても不用意に近づくべきではないのだが……。


 しかし、瑠衣ちゃんはまったく警戒心を抱いていないようだった。


「ちょっとだけなら触っても大丈夫だよね?」


 ただイルカと触れ合いたい一心で、どんどん近づいていってしまう。


「危ないから戻れって! イルカは人に噛みついたり体当たりしてくるって聞いたことがあるぞ!」


 忠告するも、そんな声はもはや彼女の耳には届いていない様子だ。


「イルカさん……イルカさん……」


 ついにイルカの元にたどり着き、その体を撫で始めてしまうのだった。


「すごい……思ったより硬いんだね」


 触った感想を口にする瑠衣ちゃん。 

 野生の生き物を完全にペットか何かだと思い込んでいるようだ。


「あ〜くそ! 仕方ねぇな……」


 口で言っても聞かないなら、直接連れ戻すしかない。

 そう考えたオレは海に入り、瑠衣ちゃんの方へと向かった。


 それに気づいた彼女が、無邪気に手を振ってくる。


「勇吾くん、見て見て! イルカさん、可愛いし大人しいよ!」


 イルカの頭を撫でながらそんな報告をしてきた。


「確かに可愛いとは思うけど……」


 正直、触れ合いたい気持ちはわからなくはない。

 海水浴に来てこんなに可愛い生物と遭遇したら、誰だってテンションが上がってしまうだろう。


 だが、どれだけ可愛くても野生の生き物であることに変わりはない。


 今は大人しくても、意思疎通ができない以上、警戒するべきなのだ。


「ほら……戻るよ」


 やがて瑠衣ちゃんのそばに到達したオレは、陸に戻るよう説得する。


 だが、彼女はそれをきっぱりと拒否してきた。


「やだ! もう少しイルカさんと遊ぶ!」


 両腕でイルカの体を抱きしめ、なかなかその場を動こうとしない。


「聞き分けのない子だな……」


 外見は大人びているのに、やはり中身はまだまだ子どものようだ。


 しかし、今回ばかりはワガママを聞いてやるわけにはいかない。


 多少強引な手段でも、何かしらの危害を加えられてしまう前に連れ戻すべきだ。


 そう考えて彼女の腕を掴もうとしたその時――事件は起きたのだった。


 彼女の腕の中のイルカが突然暴れ出したのだ。


「……な、何!?」


 瑠衣ちゃんが驚いて手を離す。


 イルカはなおも暴れ続け、細長いクチバシで器用に瑠衣ちゃんの着ているセパレートタイプの水着を剥ぎ取ってしまう。


 しかも上と下の両方だ。


 そのせいで瑠衣ちゃんは水着を失い、オレの前ですっぽんぽんになってしまった。


「……え?」


 さすがにイルカに水着を奪われるとは思っていなかったらしい。


 彼女はすぐには何が起きたのか理解できないようだった。


 



 


 


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