第10話 お兄ちゃんって呼んでもいい? 前編

 俺の名前は細山良樹ほそやまよしき。この春大学を卒業して、とある会社に入社したばかりのサラリーマンだ。


 学生の頃は少なからず社会人をカッコいいと思っていた。バリバリ仕事をしてお金を稼ぎ、誰にも干渉されることなく充実した毎日を送る。自分もいつかそんな大人になれると本気で信じていた。 


 だが、現実は想像していたほど甘くはなかった。

 大学在学中に複数の会社の面接を受けるも見事に全滅。

 送られてくるお祈りメールに何度もくじけそうになりながら、それでも根気よく就活を続けてようやく内定をもらうことができたのだが、そこはややブラック気味な会社だった。

 残業や休日出勤は当たり前。飲み会はほとんど強制参加。平然とハラスメント行為をしてくる先輩や上司も存在し、一応会社のガイドラインはあるものの、あまり守られている様子はない。

 中には激務や面倒事を部下に丸投げし、そのせいで失敗しても一切責任を取ろうとしない最悪の上司も残念ながら存在する。

 そういう上司は何でも他人のせいにする傾向が高く、常に不満や小言を口にしており、周囲に多大な不快感を与えている場合がほとんどだ。しかも、たいていはそのことに無自覚だったりするから本当にタチが悪い。

 そんな会社だからか、新年度が始まってまだ二ヶ月ほどしか経っていないというのに、新卒で入社した社員のうち半数近くがすでに退職してしまっていた。

 俺はまだ今の会社で頑張っているが、退職した同期たちの気持ちは痛いほど理解できる。俺自身もすでに退職を考えてしまっているからだ。……まぁ、会社を辞めたところですぐに転職先が見つかるとは限らないし、仮に見つかったとしても今より労働条件が良いという保障もないから未だに退職届を提出できずにいるのだが。

 そういう意味で、今の会社に早々に見切りをつけて退職した同期のことはひそかに尊敬していた。


「さてと……ようやく午前の外回りは終わったな。次の約束まではまだ時間があるし、メシでも食いながら待つかな……」


 交通量の多い駅前の大通りを歩きながらつぶやく。

 俺は今、外回りの最中なのだ。

 会社は常に人手不足なので、俺のような新入社員にも様々な業務を任せようとする。

 特に面倒な仕事は新人に丸投げされることも多い。

 今回の外回りに関しても、かなり面倒な取引先の相手をしなければならないらしく、誰も行きたがらなかったため、新人の俺に押しつけてきたというわけだ。……まぁ、俺のような見るからに新人の社員が一人で来たというのにまったく疑問を抱かない取引先の会社も、うちの会社に負けず劣らずブラックだと思うが……。


「どこかにちょうどいい店でもないかな……空もだいぶ曇ってきてるし、一雨くる前に店に入りたい……」


 現在は六月の中旬。梅雨真っただ中の季節だ。

 今も空は灰色の雲に覆われており、いつ雨が降り出してもおかしくはない。

 一応折りたたみ傘は持っているが、それでも雨が降る前に屋根のある場所に避難したかった。


 俺はキョロキョロと周囲を見回して手頃な店を探す。

 初めて来る場所なので、どこにどんな店があるのかまったくわからない。

 変なところに入って失敗するのも嫌だから、できれば無難に全国チェーンの店に入りたかった。


 そうして歩くこと約五分。

 大通りをはずれて人通りの少ない道を進むと、非常に格式の高そうな神社が前方に見えた。


「何だ……? 何でこんなところにあんな立派な神社があるんだ……?」


 俺はその神社に吸い寄せられるように一歩一歩近づいてゆく。

 そして、たどり着いた鳥居の前で思わず息を呑んだ。


「近くで見ると本当に立派だな……何で境内に誰もいないんだよ……」


 広い境内なのに神主や巫女の姿はなく、それどころか参拝客すら一人も見当たらない。普通、これだけ大きくて荘厳な神社なら常に参拝客がいてもおかしくはないのだが……。


「まぁいいや……せっかくだし、参拝していこうかな」


 鳥居をくぐり、手水舎で手と口を清め、拝殿へ向かう。本当に人っ子一人いないらしく、境内は静まり返っていた。

 そんな静かな境内に、俺の呼吸の音と足音だけが響く。

 やがて拝殿にたどり着くと、さっそく参拝することにした。


 賽銭箱に小銭を入れ、鈴緒を揺らし、鈴を鳴らす。

 それから二礼二拍手をして、神仏に祈り始めた。


――会社のブラック体制が少しはマシになりますように。


 今の俺にとって、それは本気で叶えてもらいたい願いだった。

 このまま今の会社で働き続けたら、いつか体を壊してしまうかもしれない。

 冗談抜きでそう思うからこそ、切に願っているのだ。


――よし。こんなものか……


 充分に拝んだ俺は、最後に一礼すると、拝殿に背を向けて来た道を引き返し始めた。

 これで少しでも社内の雰囲気が改善されればいいなと考えながら参道を歩き、鳥居をくぐる。

 そして完全に敷地内から出ると、再び手頃な店を探し始めるのだった。

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