第33話 チョイ悪じいさん
ニーナたちが目的の家の玄関まで近づくと、庭のほうから威勢の良い声が聞こえてきた。
「せいっ! やあっ! とりゃあぁぁぁっ!!」
そちらを見ずとも、誰が何をやっているのかは、すぐ察しがついた。
ニーナたちはうなずき合うと玄関のドアは開けずに、庭のほうに回り込んだ。
「ご精が出ますわね、イオさん」
ガラテイアが、小さな後ろ姿に向かって呼びかけた。
その人物――イオは、庭の大きな木に布を巻き、それに向かって打撃を打ちこんでいた。
連続での突き、上段の回し蹴り、飛びあがっての膝蹴り、と休むことなく打ちこみ続ける。
この地方に伝わる伝統武術の技だ。
日に日に鋭さが増しているのを、ニーナも感じていた。
何がそこまでイオを駆り立てるのか知らないけど、真剣な様子は伝わってくる。
最近では、ニーナには彼女の攻撃を避けかわすのは限界があり、稽古の相手はやめていた。
それでも、エリザから一本取ることには、まだ成功していないようだ。
ガラテイアの呼びかけに気づかなかったようで、イオは木に向かって打ちこみ続けている。
あるいは、その真っすぐ過ぎる性根が、エリザに拳が届かない原因なのかもしれない。
一心不乱と言えば聞こえはいいが、たとえ稽古の最中でも、周囲の状況を察知できるのも、武術家にとって大事な能力だろう。
「お~い、イオ。イ~オっ!!」
ニーナに大声で呼びかけられて、ようやくイオはニーナたちの存在に気づいた。
「あっ、ニーナねえちゃん、ガラテイアねえちゃん!」
全身に湯気を立たせながら、イオは笑顔で振りかえる。
今日は、季節外れに暖かな日だが、いまのイオには暑すぎるくらいだろう。
ガシガシとタオルで顔や頭の汗をぬぐうその姿は、なんとなく犬みたいだった。
「またウチのこと描きたいの? またカッコよく描いてくれる?」
人懐っこい表情で、イオはふたりに近づく。
汗の玉が、きらきらと日の光に輝いていた。
いまにも鼻をくっつけてじゃれついてきそうで、ますます犬っぽい。
たしかに、いまのイオの姿は絵になるだろうなぁ、とニーナは本来の用事も忘れて思う。
何か一つのことに夢中になって打ちこむ姿というのは、とてもまばゆく映る。
ガラテイアが傍にいなければ絵を描くことに専心できなかったニーナにとって、イオの真っすぐさは少しうらやましくもあった。
これまでにも、イオのことは、何枚か絵に描いていた。
と言っても、じっとしていることが大の苦手なイオはモデルには向かない。
ガラテイアの提案で、イオにはいつものように野山で駆け回ったり稽古に打ちこんだりしてもらい、その姿をなんとか勢いで絵におさめた。
躍動感のあるいい絵だ、とガラテイアは褒めてくれたし、イオ本人も気に入っていた。
「ううん、それはまた今度。今日はカルヴィーノさんに用事があってきたんだ」
期待に満ちたイオの目に苦笑しながらも、ニーナはこたえた。
イオはきょとん、と首をかしげる。
「じいちゃんに?」
「うん。実はね――」
ニーナとガラテイアのふたりは、ワイン瓶に絵や家紋を貼り付ける、というアイディアを簡単に話した。
「なにそれ!? おもしろそ~!」
絵を描きに来たんじゃない、と言われて一瞬ガッカリしたイオだったが、再びその瞳がきらきらと輝きだす。
「じいちゃん! じ~ちゃぁぁん!!」
そして、大声を張り上げた。
ニーナが「わっ!?」とびっくりして、思わず耳を塞ぐくらいの大音声だった。
「なんじゃい。騒がしい。そんな大声出さんでも聞こえとるわい」
少し経って、庭に面したベランダのドアが、がらりと開いた。
姿を見せたのは、白髪に白い豊かなひげを生やした老人だった。
見事な太鼓腹の恰幅で、肌は浅黒く、小柄で犬っぽいイオとはあまり似ていなかった。
朝日がまぶしいのかオシャレなのか、家の中から現れたというのにサングラスを身につけている。
開襟のシャツに半ズボンという、真夏のような格好をしていた。
「ん~? お嬢さんたちはたしか……」
「あ、は、はじめまして。ニーナです」
「お邪魔しております、ガラテイアですわ」
その迫力ある姿に、ちょっと引き気味のニーナ。
一方、ガラテイアはまったくひるむことなく、優雅にお辞儀を返した。
「おおお! これはこれは。孫娘がいつも世話になっております。カルヴィーノですじゃ」
チョイ悪風な見た目にそぐわない、ほがらかな声でカルヴィーノは笑う。
大きなお腹が、ゆさゆさと揺れていた。
「それにしてもガラテイア嬢……ウワサには聞いておりましたが、聞きしにまさる可憐なお姿ですな。まるで、朝日に色とりどりのアイリスの花が咲き乱れるのを見るようですじゃ。うむうむ、実にお美しい」
立て板に水のように美辞麗句を並べるカルヴィーノだが、その言い方には嫌味やくささがなく、明るく軽快な調子だった。
若いころはさぞモテていただろう、と思わせる雰囲気がカルヴィーノ老にはあった。
「まあ、お褒めいただき光栄ですわ」
ガラテイアも、如才なく笑顔で応じる。
カルヴィーノはまだ褒めたりない、とばかりに舌を回し続けていた。
「それにしても、ジェロラモのヤツにこんなお美しい娘さんがおったとは、不覚にも知りませんでしたな。きっとお母様に似たのでしょうなぁ。仕事一辺倒な男だとばかり思っておったが、スミにおけんのぉ。あやつは元気にやっとりますかな?」
ジェロラモというのは、ニーナやエリザの叔父の名前だ。
ガラテイアは、いまは外国暮らしをしているその叔父の娘という設定で町の人間には説明していた。
カルヴィーノとは初対面だが、どこからか噂を聞いているのだろう。
「え、ええ。わたくしもしばらく会っていませんが、息災にしていると聞いていますわ」
多少ぎこちなくも、ガラテイアはうなずいてみせた。
しばらくも何も、ほんとは一度も会ったことはないのだが……。
「おお、それは何よりですじゃ。あやつとわしは、歳は離れておるが長年の飲み仲間でしてな。ジェロラモは堅物だが、酒の匂いを嗅ぎつけるのは実にうまい男でなぁ。あるときなんぞ――」
思い出話を始めたカルヴィーノに、ニーナは内心マズい、と焦りはじめる。
ガラテイアの知らない叔父の話がこれ以上進むと、ボロが出るかもしれない。
助け船を出そうか、と口を開きかける。
「じいちゃん! そんな話はどうでもいいから!」
けど、その前にイオが焦れたように叫んだ。
「そんなことより、ニーナねえちゃんたち、じいちゃんのインサツキを使いたいんだって!」
「ほう?」
イオの言葉にカルヴィーノは、ぴたりと思い出話をやめた。
ニーナとガラテイアは一瞬目くばせをしあい、内心ほっと胸をなでおろす。
「どこでその話を……ああ、ロザンナ婆さんですな」
カルヴィーノは、一転して声を低めた。
見た目と相まって、ちょっと怖い感じもした。
「でしたら、中でお伺いしましょう。ここからでけっこうですので、どうぞお上がりくだされ」
カルヴィーノはベランダのドアを再び開け、ふたりを招き入れる仕草をした。
「イオ、お前さんはちと、公共浴場で水浴びしてこい。そのままじゃ、風邪引くぞ」
「え~、ウチもねえちゃんたちの話聞きたい!」
「ええから、まずは汗を流せ。汗臭くてかなわんわい」
辛辣な言い方のようだが、そのちょっとしたやり取りからもカルヴィーノが孫娘のイオを可愛がっているさまが伝わってくる。
「お前さんも、こちらのお嬢さんがたを見習って、もう少しレディとしての振る舞いを身に付けんか」
「え~。ガラテイアねえちゃんはともかく、ニーナねえちゃんはあんまりレディって感じじゃないよな~」
「これ、どの口が言うか」
カルヴィーノはイオの両頬をむぎゅっとつまむ。
イオはケタケタと笑っていた。
「じょうだん、じょ~だん! じゃあ、ニーナねえちゃん、ガラテイアねえちゃん、また後で!」
「ええ。また後で、ですわ」
「イオ! ちゃんと前見て走って。転ぶよ!」
手を振りながら元気よく去っていくイオを、ニーナたちは笑って見送る。
「さて、お騒がせしましたわい。どうぞこちらへ」
カルヴィーノは、大きなお腹を揺すり、家の中に入っていく。
ニーナたちもそのあとに続いた。
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