第29話 印象派の誕生?
ガラテイアがニーナとともに暮らすようになってから、二か月が過ぎた。
タスカーナの町にもブドウ畑にも、冬のよそおいが少しずつ姿を見せ始めていた。
ブドウ農家の者たちにとっては、比較的仕事量の少ない休耕の時期だ。
千年のブランクがあるとは思えないほど、ガラテイアはあっという間に現代の暮らしなじんでいた。
彼女が古代に創り出された生ける彫刻であることは、ニーナの姉のエリザと老メイドのロザンナだけが知っていた。
大騒ぎになってはいけないから、というのがエリザたちの主張だった。
「芸術復興が盛んに言われ、目まぐるしく世情が移り変わるこの時代です。用心するに越したことはないでしょう」
「ガラテイアどのの正体が知れたら、フロレンティアの貴族たちにさらわれかねませんな」
エリザとロザンナのふたりは、慎重に言う。
実際にフロレンティアで暮らしていたニーナも、ふたりに同意見だった。
万能の聖女が創り出す作品が、大貴族たちのあいだでは、庶民ならつつましく生涯を生きていられるほどの値段で売り買いされている時代だ。
ガラテイアを、そんな騒動には絶対に巻きこみたくなかった。
蔵で働く者たちや町の人間には、いままで外国暮らしをしていたオルネライア家の親戚、ニーナやエリザの
かなり強引な設定ではあったが、実際にニーナたちの叔父は諸外国を忙しく飛び回り、貿易商を営んでいる。
タスカーナのワイン販路開拓のために忙しく、もう十年以上故郷に戻っていない。
オルネライア家の現当主エリザがそうと説明したなら、みなも「そういうこともあるか」と無理やりにでも、自分を納得させるしかなかった。
ニーナとガラテイアのふたりはタスカーナのあちこちを巡り、絵を描いていた。
ニーナにとっては、生まれ育った町を再発見するような心地だった。
冬枯れが訪れる前、青々と広がるブドウ畑。
坂の多い、素朴な街並み。
それに、ディオニシアの神殿もたびたび訪れて絵に残していた。
夕食後は、就寝までにガラテイアの姿を描くのが日課だった。
「はぁ……。今日のお夕飯、お豆とお野菜のトマト煮込み。おいしすぎて、食事をとる必要のないわたくしもつい食べ過ぎてしまいましたわ」
「うん。ロザンナが作ってくれるあれ、小さい頃から冬の定番なんだ。けど、なんでガラテイア、なんでさっきからため息ばっかりついてるの?」
「だって……。せっかくニーナが描いてくれるのに、お腹がぽっこり出てたりしたら恥ずかしいですわ」
そんなことをガラテイアは何度か口にすることがあったが、実際のところは、彼女はまったく太ったりしなかった。
いつ裸身を描いても、ピュグマリオンが創り出した完璧なプロポーションのままだ。
毎日その姿をあますところなく描いているのだから、その点は確信を持って言える。
きっと気分の問題なんだろう、とニーナは推測していた。
毎日をともに過ごし、そんな妙に人間くさいところも含めて、ガラテイアに対してますます親しみが湧く。
ただ、絵を描く日々を過ごすあいだ、まったく働かないでいるのは気が引けた。
フロレンティアで万能の聖女を目指していたときも工房で働いていたのだから、蔵の仕事を手伝いながらでも絵は描けるはずだ、と思っていた。
けど、いざ描きたいものを描こうとすれば時間はいくらあっても足りなかった。
毎日が飛ぶように過ぎていくように感じる。
季節の移り変わりどころか、毎日の天候や時間帯でも、風景の見せる姿が変わっていく。
それに、ガラテイアの姿を描くことも、まだまだ自分で納得できる境地には至っていなかった。
結局、簡単なお使い程度の用事をたまにやるくらいで、ほとんど実家に居候しているような形になった。
オルネライア家は、タスカーナで有数の名家とはいえ、大貴族のように裕福ではない。
生活とワイン蔵の伝統を守るために、エリザもロザンナも毎日一所懸命に働いている。
その力になれないことは、ニーナの心にいつも引っかかりを残していた。
けど、エリザたちはガラテイアを信用しているようで、ニーナの現状については何も口を挟まなかった。
むしろ、少しでも蔵の仕事に戻るようなことをニーナが口にすると「いまはあなたのすべきことに専念なさい」と、それをはっきりと拒むくらいだった。
ガラテイアはニーナの絵について、ほとんど何も言わなかった。
けれど、時おり二言、三言伝えるアドバイスは常に的確で、ニーナに新鮮な驚きをもたらした。
ガラテイアといっしょにいると、自分の絵の上達が目に見えて感じられる。
それがますます、ニーナを絵に熱中させる。
絵を描いているときだけは、他のすべてのことを忘れた。
ガラテイアの美しさや、常に古代風の装束を身にまとっている物珍しさもあいまって、絵を描くニーナの姿は町のちょっとした名物となっていた。
絵を描いているときは周りが見えなくなるニーナ当人だけが、そのことに気づいていない。
もはや、タスカーナに暮らす者でニーナとガラテイアのことを知らない人間など誰もいないくらいだった。
しかしながら、ニーナの絵を仕事に活かす道は、いまだ見つかっていない。
◇◆◇
そんな、ある日の朝。
ふたりは、いつものようにニーナの部屋で、今日は何を描きにいくか相談していた。
「だいぶ分かってきましたわ」
ニーナの描きためたスケッチの束を見ながら、ガラテイアが言う。
「分かった、って何が?」
「ニーナのもっとも得意とする画風について、ですわ」
ニーナは期待半分、疑問半分という顔でガラテイアの顔を見る。
いままでガラテイアのアドバイスが無駄になったことは一度もない。
じっと、彼女の次の言葉を待った。
「わたくし、ニーナの描いた絵を見てとても心惹かれるものとそれほどでもないものの違いを、ずっと考えておりましたの」
「うんうん」
ガラテイアは、言葉を切り、まっすぐニーナの目を見つめる。
大事なことを伝えようとするときの、彼女のクセだった。
「ニーナ。あなたの絵の中でも、実際にある物事そのままの輪郭を描くより、光と影の表現をうまく使って風景や人物の印象をふんわりと、柔らかく描いたものに、より惹かれますわ。対象の印象を柔らかく描くことで、かえってそのものの本質を伝えられる」
ガラテイアの声音は、いつになく熱を帯びていく。
「いつか、あなたが言われたという『ホンモノの町よりもホンモノらしい』という言葉。これこそが、その正体ですわ。ニーナの持つ才能の本質を、やっとわたくし気づきましたわ!」
ガラテイアは、ずばりといった口調で断言する。
けど、言われたニーナのほうはきょとん、と首をかしげていた。
「……ガラテイアがいま言ってくれたことって、そんなに特別なこと? 万能の聖女なら、誰でもできることなんじゃないの?」
「……ニーナ」
ガラテイアは呆れかえった顔をしていた。
どんなときもニーナに対して優しい彼女が、こんな表情を見せるのは初めてのことだった。
「えっと……。わたし、なんか変なこと言った?」
重ねて問うニーナに、ガラテイアはため息をつく。
「才能に恵まれた者は、他の人もできるのが当然と思っていたりしますものね」
「え、えっ?」
「わたくしがいて本当に良かったですわ」
ガラテイアはニーナの肩を、両手でがしっとつかんだ。
「ニーナ。それはまぎれもなくあなたの才能ですわ。はっきり言って、わたくしが見せて頂いた限り、万能の聖女さんの誰よりも……。私のマエストロ、ピュグマリオン様よりも、印象をとらえて描く力はニーナのほうが上ですわ」
「ウソ、でしょ……」
ガラテイアは芸術に対して決して嘘をつかない。
それはよく知っているが、それでもニーナは信じがたい思いだった。
自分が、ほとんど当然のようにやっていることが他の人にできないなんて考えたこともなかった……。
「でも、そんな印象でふわっと描いた絵なんて、誰も買ってくれないんじゃ……」
「いえ、それも考え方しだいですわ」
ガラテイアは興奮した面持ちで、勢い込んで言う。
「あなたの才能を活かし、売りこむ手段をいっしょに考えましょう。ニーナ」
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