第28話 ヌードデッサン

 突如、一糸まとわぬ姿をあらわにしたガラテイアに、ニーナは激しくうろたえた。


「ちょっ、なっ、なっ!? ガラテイア! なんで脱いでるの!?」


 思わず大きな声を上げてしまい、あわてて口をおさえる。

 もし姉のエリザが聞きつけてやってきたら、なんと言っていいか分からなかった。


 ガラテイアは眩しいほどに色白な全身を惜しげもなくさらしながら、きょとんとしていた。

 脱ぎ捨てた衣服は手早くまとめて、ニーナのベッドに放っている。

 服を着直す気はなさそうだ。


「なぜって……わたくしを描いてくださるのでしょう?」

「描くけど! 何も脱ぐことないでしょ!?」


 極力声を抑えながら、ニーナは返す。

 せっかく整った心臓が、また暴れ出していた。


 顔を真っ赤にして、そっぽを向く。

 こうして会話をしているだけで、頭が沸騰しそうだった。


「ニーナ」


 対して、ガラテイアの様子は平静そのものだ。

 動揺は微塵もない。


 ニーナがハッとするほど真剣味を帯びた声で呼びかける。

 その声に引き寄せられるようにニーナは正面を向きかけ、またあわてて顔を横に向けた。


「人の体を描く基本は、何も身につけていない姿を描くことですわ。筆をとってみれば、ニーナにならその意味が絶対に分かるはずですわ」


 きっぱりとしたその声音に、ニーナは何も言い返せなかった。

 まるで工房で親方に叱られたときのように、その顔が引き締まる。

 ガラテイアが決してたわむれでそんなことを言っているのでないのは、声音からよく分かった。


「それとも、わたくしの裸身は目をそむけたくなるほど、ニーナにとって、みにくいものなのかしら?」

「そ、そんなわけないじゃん!」


 その言い方はズルい、と思いながらも、そこまで言われてそっぽを向いてはいられなかった。

 ニーナは首をガラテイアに戻す。けど、まだ直視はできなかった。

 ガラテイアは満足げにうなずいて、話を続ける。


「さて、どんなポーズを取りましょうか。座ってでも立ってでも、ニーナの描きたいようにリクエストしてくださいまし。わたくし、静止するのは得意中の得意ですから」


 そう言いながら、手足を曲げ伸ばしして、次々とポーズを作ってみせる。

 きわどい部分もちらちらと見え、ニーナを赤面させる。


「う、うう……お任せで」

「分かりましたわ。では、こんな感じでいかがでしょう?」


 ガラテイアは腕を頭の上で伸ばし、軽く背をそらす。

 表情は気持ちよさげに軽く微笑み、瞳は優しく細め、あごは軽く上を向いていた。

 脚は自然な感じで少し開く。


「すごっ……」


 まるで魔法のようだ、とニーナは感じた。

 ガラテイアがそうして佇むだけで、部屋の中が木漏れ日降りそそぐ湖畔にでもなったような錯覚を抱く。

 妖精界に住まうニンフがひと時地上に舞い降りて、森の中、全身に浴びる陽光を楽しんでいる。そんな物語すら感じさせる姿だった。


 ガラテイアが彫刻の姿であったときのポーズに似ているが、少し違う。

 より、自らの体のラインを強調するような姿態だった。

 

 ニーナに対して正面ではなく、軽く斜めに立ち、わずかに腰をひねっている。

 伸びやかな手足に首筋。豊かな二つの胸、太ももの付け根から股のあいだ、柔らかな臀部に至るまで。

 角度を変えて見なくても、ガラテイアの全身が余すところなくあらわになる、そんな格好だ。


 描き手のために計算しつくされたポーズであることが、よく分かった。

 その姿を見たニーナの頭から、気恥ずかしさが一気に消えた。


 ――描きたい。


 ただ、その衝動のみがニーナを突き動かした。

 美しい、とただ純粋に思う。


 ――やっぱりガラテイアは生きてるんだ。


 改めてそう感じる。

 その裸身には、たしかな生命の力強さが宿っていた。

 吐息に合わせて胸がかすかに上下し、胸の鼓動すら伝わってくる。


 ピュグマリオンによって創られた理想の女性像でありながら、非現実的な感じはまったくしない。

 むしろ、本物の人間よりも人間らしくみえる。


 ニーナは、憧れである万能の聖女、ミカ・アンジェラが描いた天使の絵を初めて見たときの衝撃を思い出していた。

 この美しさをとらえ、絵に残せたなら、彼女の世界に一歩近づけるかもしれない。


 久しぶりに絵筆とスケッチブックを手にしたニーナの目は、もうガラテイアの姿を絵画の対象としか見ていなかった。


「……ありがとう、ニーナ」


 微動だにしないまま、ガラテイアは小さくつぶやく。


 それからどれだけのときが過ぎたのか、ニーナはまったく覚えていなかった。

 日が落ちてからも、ほとんど無意識に、部屋に備えつけられた魔光灯のランプを点けて描き続ける。

 自然光とランプの灯では陰影が大きく異なるが、それすらもニーナの絵の中で一つのものとして昇華されていた。


 裸身はデッサンの基本、と言ったガラテイアの言葉は真実だった。

 

 ガラテイアがまとった古代の衣服も、描きがいがあるものだろう。

 けど、彼女の一糸まとわぬ姿を絵に残すことは、さらに奥深く、そして難しかった。

 何も身につけていないからこそ、ごまかしは一切通用しない。

 豊かに波打つ小麦色の長い髪が、唯一の装飾品だった。


 人の体が織りなす複合的で繊細な曲線美は、それ自体神々の創り出した芸術品のように思える。

 頬からあごにかけてのライン、首筋、肩の丸み、手首と関節で収斂しゅうれんする腕の筋肉、脇から腰にかけてのスラリと伸びる稜線、数え上げようとすればキリがない。

 服の上からではただ大きいことしか分からなかった乳房も、その柔らかな丸みと重量感を絵に写し出そうと思えば、簡単にはいかなかった。


 そして、ただ外形を模写するだけでは、その本質をとらえきれない。

 それでは、せっかくのガラテイアの美しさも、魂を持たない彫刻以下の存在としてしか描けない。

 その曲線の織りなす美しさの芯をとらえ、静止したポーズからも伝わる躍動感を表現し、内面の美しさまでも描き出したかった。

 

 うろたえていた自分が恥ずかしくなる。

 絵画の対象として見るガラテイアの裸身に、いやらしさや下品さなど微塵もなかった。


 それはきっと、ガラテイアが彫刻の乙女だから特別だ、ということではないのだろう。

 人の姿は、何も着飾らなくても、ただそれだけで美しい。


 ニーナはそれをなんとなく知っているような気になって、本当には分かっていなかった。

 ガラテイアの姿がそのことに気づかせてくれた。


 ただ、ひとりの絵描きとして、その気高さ、美しさをもっと感じたかった。


「う~ん……」


 自分の描いたデッサンを見て、ニーナはうなる。

 とても、納得できる出来とは言いがたかった。


 ガラテイアの美しさの百分の一も表現できていない、と自分では感じる。

 けれど、これ以上描いた絵に線を足しても、かえって理想から遠ざかっていく気がした。


「ニーナ。一つの絵にこだわるのも良いけど、これは練習ですわ。数多くこなしてみるのも、いいのではないかしら?」


 筆が止まってしまったニーナに、ガラテイアが静止したまま呼びかける。

 楽なポーズには見えないが、無理している感じはまったくない。

 そこは、彫刻ならではの特技なのかもしれない。


 ニーナはうなずき、そのアドバイスに素直に従うことにした。

 目指す高みはまだまだ遠い。

 一枚や二枚デッサンしたくらいで納得のいくものが生み出せると考えるほうが、おこがましいのかもしれない。


「うん、わかった。そしたら、ガラテイア。ポーズを変えてみてもらってもいい?」

「ええ、もちろんですわ」

「次は背中とお尻のラインをもっと描いてみたい、かな」

「分かりましたわ! そうしたら、背を向けて……こう、軽く振りかえって、こんな感じのポーズはいかがでしょう?」

「あっ、それ、すごくいい!」

「背骨の質感、腰の筋肉のねじれを意識して描くのがコツですわよ」

「分かった! やってみる」


 流れる時を忘れ、ニーナはガラテイアを描き続けた。

 背を向けて、椅子や床に座って、ベッドに横になって……。

 ポーズを変えるごとに、新たな発見があった。


 この日以来。

 一日に一回は裸身を描くことが、ニーナとガラテイアにとっての日課となった。


 ガラテイアを描くときのニーナは、ほかのことを一切忘れ、夢中になっていた。

 ただ絵を描くことが純粋に楽しく、喜びだった。

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