第23話 眠り姫

 ニーナが「知らない」という意思表示に首を横に振ると、ガラテイアは周囲をぐるりと見回した。


「ニーナはマエストロのことをご存知ないのですね。……そういえば、ここはどこなのでしょう? ずいぶんと埃っぽい場所ですわね」

「えっと……」


 彫刻の乙女ガラテイアは、自分が保管されていたこの場所について、把握していない様子だった。

 さっき自分で押しのけた、朽ちた棚を不思議そうな顔で見ている。


 そもそも、本当に彼女はニーナが見た彫刻なのか。

 だとすれば、いったいいつから、どういう経緯でここにあったのか。

 不思議なことだらけで、ニーナはなんと答えていいのかよく分からなかった。


「たぶん、物置きみたいな場所なんじゃないかなって思います。わたし、あっちから来たんですけど……」


 ニーナは崩れた壁のほうを指さした。


「なるほどですわ。物置きならごちゃごちゃしているのも納得ですわ~。けど、ずいぶんと古くなった品ばかりのようですけど……。わたくしも、いつの間にか物置きにしまわれていた?」


 自問するようなガラテイアの問いかけに、もちろんニーナは何も答えられない。


「でしたら、この物置きはピュグマリオン様のお屋敷の中ですの? ……っと、ニーナはマエストロのことを知らないのでしたわね。なら、ここは……」

「えっと……。ディオニシア様の神殿です」

「ディオニシア? お酒の女神様の?」

「はい、そうです」


 どうやら女神の名前はガラテイアにも通じるようだ。

 ガラテイアは、ニーナから目をはずし、記憶の糸を手繰るように視線をさまよわせた。


 その瞳から、光が消えていく。

 まるで、物言わぬ彫刻に戻っていこうとするように。


「……ディオニシアの神殿。そう……あの時……神殿の奥なら、破壊される心配はないと……誰かが……。わたくしは運び込まれて……炎が……叫び声も……あぁ、恐ろしくなってわたくしは……意識を……。あれは夢? それともほんとにあったこと?」


 ガラテイアは頭痛をこらえるように、ぎゅっと眉根を寄せた。


「ガラテイアさん?」


 その様子に不安を感じて、ニーナはそっと呼びかけた。


「ニーナ。わたくし、この部屋の外に行ってもいいかしら?」

「え、あ、はい……」


 ガラテイアはニーナの返事もまたず、壁の崩れたほうに歩き出した。

 さっきまでのはつらつとした声とは違う、熱に浮かされたような声音だった。


 その足取りも、ひどくふらついて見える。

 ニーナも、あわててその横に並んで歩いた。


「ガラテイアさん、大丈夫ですか?」

「ええ。心配いりませんわ」


 呼びかけると、ニーナの顔を見て微笑んでみせる。

 けど、その笑顔もどこか無理している感じがした。


 まずニーナが先導するように、がれきをくぐって祭壇の間に戻った。

 ガラテイアもすぐにそれに続き、ニーナを追い越して部屋の中央へと歩いていった。

 なかばニーナを押しのけるような形になったけれど、そのことにすらガラテイアは気づいていない様子だった。


 その足取りは、やはりおぼつかないものだ。

 周囲を見回すその姿は、茫漠と広がる部屋の大きさに惑っているように見えた。


「ニーナ……。誰もいませんわね」


 まるで、飼い主から置きざりにされてしまった子犬のような、不安げな顔でニーナへと振り向く。

 さっきまでは艶やかで優美に見えたその姿が、ニーナの目にはひどくか細く見えた。


「それにこの祭壇も、ずいぶん長いこと使われていないようですわ。ニーナ、あなたはいつから、ここが無人なのか、ご存知かしら?」


 ニーナは返事をするのをためらった。

 けど、何か答えてあげなければ、ガラテイアはどこか遠くに行ってしまいそうな、そんな気配がした。


「……正確なことは、わたしも知りません。数百年か、もしかしたら千年は昔の建物なんだと思いますけど……」

「千年……」


 ニーナにもどう取りつくろっていいのか分からなかった。

 ガラテイアは、呆然と目を見開き、何もない虚空を見つめていた。


わたしのご主人様ミオ・マエストロ……」


 我知らず、というふうにぽつりとつぶやく。

 その目の端から、不意に涙がこぼれた。

 声も上げず、ガラテイアは涙を流し続けた。


「ガラテイアさん……」


 ニーナは彼女が心配になって、そのそばに寄り添い、そっと袖を握った。

 

「あら? わたくしったら、どうしてしまったのでしょう」


 ガラテイアは、まるでいま自分が涙を流していることに気づいたような顔で、そっと目元をぬぐった。

 そして、心配げにかたわらに立つニーナに笑いかけてみせる。

 安心させるように、ニーナの頭を軽くなでた。


「どうやらわたくしは、ずいぶん長いこと眠り過ぎてしまったようですわね」


 にこりと笑っていても、その目は寂しげに揺れていた。

 ニーナには想像もつかないような年月の重みを感じさせる表情だった。


「あ、あの……! ガラテイアさん」


 何か言おうと、ニーナは考える前に声を出していた。


「なんでしょう、ニーナ?」

「え、えっと……ピュグマリオンさん。わたしは分からないけど、たぶんお姉ちゃんなら知っていると思います!」

「お姉様、ですの?」

「は、はい。お姉ちゃんから、その名前、聞いたことがあるような気がするんです!」


 いつ、どんな内容で聞かされたのかは覚えていない。

 けど、たしかにエリザの口からその名前を聞いた気がした。


「まあ! それはありがたいですわ。お姉様はどういうお方ですの?」


 ガラテイアの顔に、パッと花が咲いたような笑顔が見えた。

 無理しているようには見えなかった。


「えっと、ワイナリーの当主をしてて……。ちょっと怖いとこもあるけど、優しいお姉ちゃんです」

「まあ、ワイナリー! それはステキですわ! わたくし、こう見えてワインには目がありませんの」


 ガラテイアは、さっきよりも明るくニーナに笑いかけた。


「ここにあるワインも、もしかしてお姉様が?」

「はい! 毎年、一番にできたワインを神殿に納めてるって……。それで、今年はわたしがお姉ちゃんの代わりに奉納にきて、ちょうどさっきそれを終えたばっかりで……」


 少しでも相手の気のまぎれになれば、とニーナは勢い込んで話す。

 ガラテイアは笑顔でそれを聞いていた。


「そうだったのですね。でしたら、ニーナもワイナリーでお姉様といっしょにお仕事をされているのかしら?」

「えっと、いまは……はい。けど、あの……」


 ガラテイアの問いかけに、途端、ニーナの勢いがしぼんでしまう。

 万能の聖女になれず、フロレンティアから三年で故郷に戻ってきてしまった。


 いまはその先の道も見出せていない。

 だから、「絵を描いています」とは胸を張って言えなかった。


 けど、ガラテイアは何かを察したように優しく微笑んで、それ以上はたずねようとはしなかった。


「わたくし、目覚める前にマエストロの声を聞いた気がしますの」

「えっ?」

「ニーナ。『どうかあなたの力になってやってくれ』そう言っていた気がしますわ。それできっと、わたくしは目を覚ましたのですわ」

「あっ」


 ガラテイアは両手で包みこむように、ニーナの手を握った。


「いきなりこんなことを言われて、とまどってしまうかもしれませんけど……」

「そんなことないです! とっても嬉しいです」


 なぜか、ニーナにもガラテイアの言うことが信じられる気がした。

 手を握り返し、ガラテイアの瞳を見つめ返すと、胸が温かくなる。

 喜びと同時に、ニーナの目じりにも涙がじんわりと浮かぶ。

 

 そのとき、風もないはずの部屋の空気が微かに揺れた。

 そして、ニーナの耳にも誰かの声が聞こえた。


「どうか、私のかわいい彫刻の乙女のことをよろしく頼む」


 そう、ささやかれた気がした。

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