第18話 奉納の儀式
故郷に帰ってから毎日張り切って仕事をしているニーナだったが、五日に一日、休みの日をもらっていた。
そういう日はイオの稽古の相手をしたり、習い覚えたことを確かめるため、よそのワイン畑を見学したりして過ごしていた。
熱心さの裏に、どこか無理にでもヒマを作らないようにしている焦りもあった。
けど、ワイナリーの仕事に熱中する気持ちはホンモノだった。
オルネライア家に生まれながらも、フロレンティアから帰ってはじめて、実家の仕事の難しさと面白さを知った。
ワインは生き物だった。
その日、その日の気候で態度を変える。
その管理は、経験が頼りの職人仕事だった。
それは、ナタリアの工房で学んだ鉄の扱いにもよく似ていたが、それよりさらに繊細で、気難しいものだった。
ワイン造りの重要な仕事は、いまはニーナにとって手を出せるものじゃない。
様々な雑用をこなしながら、ベテランの職人が取りかかるのを見学するしかなかった。
まだまだ、学ぶべきことは山のようにあった。
けど、ニーナがやっている掃除や運搬の作業も、ワイン造りの立派な一部だ。
微かな違いで味が変わる。
それは目に見えず、形にもできないものだった。
だから、絵にも描けない。
その感覚が自分の中で腑に落ちるまで、絵筆をもう一度取れない。
そうニーナは、自分に言い聞かせていた。
ふと、胸にぽっかり穴が空いたような、虚しさに襲われることもあったけど、それには気づかないふりをした。
むしろ、胸がうずいたときこそ、しいて仕事にのめりこんだ。
そうして、何かを忘れようとしていた……。
◇◆◇
ある休みの日、ニーナは姉のエリザに「今日は出かけずに家にいてほしい」と告げられた。
「なんだろ……」
言われたとおり、ニーナは朝から、家の応接室で姉を待っていた。
家の中でも、めったに立ち入ることのない部屋だ。
椅子に座っていると、なんとなく緊張でソワソワする。
――何か怒られることまたやっちゃたのかな、わたし。ううん、仕事はちゃんとやってたはず……。ロザンナだってけっこう褒めてくれてるし。エリザお姉ちゃんとは、最近あんまり話してないけど……。でも、たぶん、だいじょうぶ。だいじょうぶなはず……。ちゃんとやってる……。怒られたりしない。……しない、よね?
ひとりでいると、ついビクビクと悪い考えを巡らせてしまうのがニーナだった。
早く姉に来てほしいような、ほしくないような複雑な気持ちになる。
「待たせてごめんなさい、ニーナ」
と、部屋のドアが開き、同時にエリザの声がした。
ニーナがそちらを向くと、エリザのかたわらにはロザンナの姿もあった。
ニーナとは違い、年中不休で働くロザンナが、この時間に家にいるのは珍しいことだった。
ふたりは、軽く驚くニーナを尻目に、向かいの席に座った。
――怒ってる、わけじゃないと思うんだけど……。
ニーナのビクビクが、ひとりでいたときの三割増しになる。
エリザもロザンナも、その表情は硬い。
いつもビシっと隙のないエリザだが、今朝はそれにも増して粛然としてみえる。
まるで道場で、武術の伝授を施そうとするかのような厳粛な空気が漂っている。
ニーナの背筋も自然と伸びた。
「せっかくの休日にすみませんでしたね」
「ううん。たまには家でのんびりしようかと思ってたし……」
ニーナの言葉は、あまり本心とは言えなかった。
生まれてから十八年、その大半を過ごした家にいると、どうしてもアレコレと考えがめぐり、落ち着かない気分になってしまう。
なんでもいいから用事を作って、少しでも前に進んでいるという実感が欲しかった。
エリザにも、そんなニーナの気持ちは伝わっているのだろう。
軽くうなずくにとどめて、話を切り出す。
「今日はニーナに蔵元としてお願いがあります」
「お願い? わたしに?」
エリザはまるで取引先と接するかのような、かたい面持ちのまま話を続けた。
「ええ。ディオニシアの神殿をあなたはご存知ですか?」
「ディオニシア……って、お酒の女神様?」
「そのとおりです。その古代の神殿が、このタスカーナにあるのです」
「そうなんだ……!」
ニーナにとって、初耳の話だった。
“古代の神殿”という言葉の響きに、その目が好奇心に輝く。
ワイナリーの新米従業員ではなく、芸術復興を担う万能の聖女に憧れた、お絵描き少女としてのニーナの顔が久しぶりに表に出た。
エリザのとなりに座るメイドのロザンナが、注視するようにすっと目を細めた。
けど、ニーナ自身は、自分の表情の変化に気づいていなかった。
「半ば廃墟と化した神殿ですからね。迷い込んだりしないよう、子どもたちには秘密にするのが、この町の不文律なのです」
「おとなでも存在を知らぬ者は少なくありませんがな」
エリザの言葉を、そっとロザンナが補足する。
うっ、とニーナは小さく呻いた。
釘を刺されたような気分だった。
町の者たちのその判断は、きっと正しい。
自分やイオがそれを聞かされたら、絶対におとなたちの目を盗んで探検に向かっていただろう。
「頼みというのはその神殿のことです。オルネライア家では、毎年一番にできたワインの瓶を、その神殿の祭壇に奉納しているのです」
「奉納……って、神殿に誰か住んでいるの?」
「女神様がお住まいですよ」
エリザの答えはつまり、無人ということだ。
「祭壇の脇に古代のワインセラーのようなものがあるのですよ。奉納とはつまり、その棚に酒瓶を納めることですな」
また、ロザンナが補足した。
「さすがお酒の女神様……」
ニーナは妙なところに感心してしまう。
「あっ、ロザンナ……っと、蔵長が言っていた特別な配達って……」
先日言われたロザンナの言葉を、ニーナは思い出した。
ロザンナの目を見ると、軽くうなずきを返してくる。
「これはオルネライア家に代々伝わる神事です。今年はその役目をニーナ、あなたに担っていただこうと思います」
「わたしが? なんで?」
神事というのであれば、現当主であるエリザが執り行うのが順当なはずだ。
ニーナの疑問はもっともなものだった。
「もし、わたしに万が一のことがあれば、儀式の次第を知るものがなくなってしまいます。あなたにも一度体験しておいてほしいのです」
「それは……いいけど。わたしひとりで?」
「ええ。それも神事の定めです」
ニーナの瞳が不安そうに揺れた。
嬉しさが少し、けど困惑がもっとたくさん。
ニーナの顔はそう物語っていた。
「なにほどの事もありませんよ。ただ、行ってワインを納めればよいのです。ですが、祈祷のための所作と祝詞を覚える必要があるので、少し稽古を積まねばなりません」
「稽古……」
「はい。それについては、わたしが手ほどきしますので心配しないでください」
エリザの表情が少しゆるんだ。
「ふふっ、子どもの頃を思い出しますね」
「そ、そうだね……」
道場で姉に、ボロボロになるまで投げ飛ばされていた記憶がニーナの頭によみがえる。
姉のエリザ自ら稽古をつける。
それはニーナにとって、嬉しくもあり、恐ろしくもあることだった。
「いかがですか、ニーナ。引き受けてもらえますか?」
「お姉ちゃん……っと、蔵元の頼みならもちろんやる……けど、ほんとにわたしでいいの?」
「ええ。あなたの働きぶりは文句のつけようもないものだと、ロザンナからきいています」
「ほんと!?」
自分でもがんばっているつもりではあったけれど、改めてそう言葉にして聞かせられると喜びが湧き上がってくる。
ロザンナはそしらぬ顔をしていたけど、ニーナが目で問いかけると、小さくうなずいてくれた。
「ですので、ニーナ。あなたが、この儀式を託すのにふさわしいものと判断しました」
「お姉ちゃん……ううん、蔵元。ありがとう!」
エリザの言葉にニーナの目元が微かに潤む。
嬉しくて泣きそうになるなんて、久しぶりのことだった。
◇◆◇
ニーナに話を終えたあと、エリザとロザンナはまだ、応接間にふたりでいた。
「あの子は強くなりました。フロレンティアで挫折を経験したからでしょう」
「……そうですな」
「いまは目の前のことをガムシャラになって挑み、そこから先へもがいているように思います」
ロザンナは口を挟まず、エリザの続きの言葉を待った。
「そこから先に進めるかは本人しだい。ヘタに手心を加えれば、かえってあの子の成長を邪魔することになりかない。そう思っていました」
「……すみません。差し出がましいご提案でしたかな」
「いいえ。きっかけを与えるくらいのことは、許されるでしょう。あの子が神殿から何を感じ、何を学ぶかは、芸術の素養を持たないわたしには分かりませんが……」
エリザは妹の前では決して見せないような、くだけた表情で笑った。
「あの子のことをよく見てくれてありがとう。ロザンナ」
「いえ。わたしは何もしてませんな」
エリザは笑いを含んだ顔のまま、首を横に振る。
「昔からそう。あの子は人に好かれやすいというか……。甘え上手で、どうしても放っておけなくなるのですよね」
「おや、珍しい。エリザ様がヤキモチですか?」
「違いますよ。……ただわたしもそろそろ、妹離れすべきときかと感じただけです。あの子の未来のためにも」
エリザは冗談めかしているが、目の奥には一抹の寂しさも宿っていた。
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