第17話 ワイナリーの日常
ニーナが実家のワイン蔵で働きはじめてから、一ヵ月が経った。
そのあいだ、蔵の番人であるメイドのロザンナは、呆れる思いだった。
「なんとまあ……」
ニーナの仕事ぶりにため息が出る。
不出来だ、というのではない。
その、あまりにも熱心な働きぶりに、だ。
「うおりゃあああ!」
気合い一閃。
モップの柄を両手で持ち、蔵の床をスミからスミまで磨いて回る。
このひと月のあいだに、すっかりおなじみとなった光景だった。
時刻は、日の出の少し前。
ニーナの働きっぷりは、朝の気だるげな空気を覚ます豪快なものだった。
「モップがけ、終わりましたっ!」
ニーナは息をはずませながら、ロザンナに報告する。
この時間に蔵にいるのは、ニーナとロザンナのふたりだけだ。
早朝は、冬の真昼と変わらないくらい冷え込む時期だ。
けれど、ニーナは額に軽く汗を流し、息をはずませていた。
「はい、ご苦労様です、ニーナ。そしたらいつものとおり、次は表の掃き掃除をお願いしますよ」
「わっかりました!」
返事をするやいなや、掃除道具を手に蔵の外へと駆けていくニーナ。
蔵の中では、ロザンナは“お嬢様”を抜いて、ニーナを呼び捨てにする。
蔵の番人としてのけじめでもあるし、そうするように、と当主のエリザから命じられたことでもあった。
ニーナは蔵元の妹とはいえ、醸造所では一番の下働きだ。
ブドウの選定や、発酵の見極めなど、味や品質に関わるような重要な仕事はさせられない。
結果、蔵の掃除から始まり、大量のブドウや水の運搬、木の棒を使っての日に三度の発酵タンクの撹拌、オーク樽の整理や瓶詰め作業など、力仕事や雑務を中心に担ってもらうしかなかった。
けど、ニーナはそれらのキツくて地味な仕事を嫌がることなく、根気よく取り組んだ。
ロザンナよりも早く蔵にきて、蔵の掃除を済ませる。
重い荷も率先して運ぶ。
ともに働く者たちにも、いつも笑顔で元気よく接していた。
三年前には考えられない光景だった。
まるで、これまでの遅れを取り戻そうとするかのような、猛烈な働きぶりだ。
「ふぅ~、こっち、完了しました!」
「ご苦労様です。では、ここからが本業です。昨夜頂いたブドウの運び込みからやってしまいましょう」
「わっかりました!」
掃除が終わるころには、ほかの従業員たちも働きはじめる。
ニーナは、彼らにも元気よく、そして礼儀正しくあいさつする。
秋は、ワイナリーにとって、もっとも忙しい時期だ。
タスカーナのブドウ農家から、収穫されたブドウが次々と届く。
仕込みが遅れれば、ワインの味も変わってしまう。
せわしない日々が続いていたが、明るく働くニーナに影響されて、蔵の中には活気があふれていた。
それは、エリザやロザンナにとっても、予想外のことだ。
幼い頃からニーナは、人に愛されやすい性質の持ち主だった。
それゆえ、油断するとつい甘やかしてしまいたくなるので、エリザやロザンナはあえて厳しく接するようにしていた。
けど、いまはその性質が良い方向に働いているように見えた。
きっと、フロレンティアの工房で働いた経験が活きているのだろう。
――ほんとに強くなられましたね、ニーナお嬢様は。
ロザンナはその姿を見て、胸の内で当主のエリザに呼びかける。
エリザも、妹の働きぶりは認めているようだった。
蔵での働きについてはロザンナに一任しているため、口を出すことはない。
ここでヘタに自分が褒めると、また甘やかしてしまうことになりかねない、そんなふうに自制しているようにも見えた。
そんな不器用な姉妹の様子を、ロザンナは内心ほほえましく見ていた。
「しかしニーナお嬢様はこれでは……」
それでも、ロザンナは心のどこかに引っかかりを覚えていた。
額に汗して働くニーナの姿を見ていても、成長を喜ぶと同時に、どこか胸につっかえが残る感じがした。
こんな調子で張りきっていてはいつまでも持つまいと思っていたが、すでにニーナが帰郷してから三十日が経過している。
ニーナの頑張りようは、ホンモノだった。
休みの日や相手の時間で、イオの稽古の相手までしている。
ロザンナには、若い者の体力がまぶしいくらいだった。
故郷に戻ってからの日々を充実させているようだった。
けれど……。
それでも、とどうしてもロザンナは考えてしまう。
――本当に、このままでよいのでしょうか。エリザ様。
そう胸中つぶやく。
フロレンティアでのことはすべて吹っ切って、仕事に集中している。
ニーナの様子はそう見えなくもない。
蔵で働く者たちはそうとらえているようで、口々にニーナのことを褒めそやしていた。
けれど、ロザンナの目には、彼女の働きぶりにはどこか自暴自棄になりかけているようにも見えた。
いきいきと働く彼女の顔はどこか仮面をかぶっているようで、その下に奇妙な虚ろさが見えなくもない。
もしかすると、ニーナ自身も自覚していないのかもしれない。
何より気がかりなのは、ニーナが戻って以来、一度も絵を描いていないことだった。
隙あらばなんでも絵にして残そうとする、あのニーナが……。
「ロザンナ、あいや、蔵長。何か気になることあった……っと、ありましたか?」
「あっ、いえ」
オーク樽を運ぶニーナの姿を、いつの間にかじっと見つめていたことに気づき、ロザンナはそっと首を横に振った。
「何も問題ありません。良い働きぶりですな、ニーナ」
「ありがとうございます! でもおかしなとこがあったら言ってくださいね!」
はきはきと答えるニーナの様子に、ロザンナは「ええ」と小さくうなずく。
いい加減な仕事をするようなら、当主の妹だとは思わず、下働きのひとりとしてきつく叱ってやろう。
エリザに厳命されたとおり、ロザンナは決意していた。
だが、まさか張り切り過ぎるな、とも言えない。
それは、蔵の番人として言ってはならないことだった。
もちろん、教え込まなければいけないことはいくらでもある。
それについては、厳しく指導した。
けど、ニーナは素直に言うことを聞き、教えたことはよく守った。
「喜ばしいこと。そのはずなのですがね……」
ニーナには聞こえないよう、ロザンナは小声でひとりごちる。
けれど……。
またしても、けれど、だ。
もし、エリザと姉妹で手をたずさえ、このワイン蔵を担っていくのであれば、いまのままでもいい。
しかし、そうはならないだろう、とロザンナは確信していた。
三代にわたって一族に仕えたロザンナにはよく分かっていた。
この一族には不思議と、まったく異なる二つの才能を発揮する者たちがいた。
ひとつは、言うまでもなく、このワイナリーを継ぎ、経営していく才能だ。
もうひとつは、外の世界に出て力を発揮すること。
ニーナは間違いなく後者の才能の持ち主だ、とロザンナは見抜いていた。
同じ血の流れる姉妹でも、エリザとは生まれ持ったものが違う。
それは良い悪いの問題ではなく、宿命のようなものだ、と彼女は思っていた。
このままでは、ニーナの才能が活かされないまま埋もれてしまう。
いかにも惜しいことと思えた。
――何か絵を描くことを思い出すきっかけがあれば。
ロザンナはニーナのことを思い、思案する。
けど、ワイナリーでの繰り返しの営みの中、きっかけを見つけることは難しい。
ふと、ロザンナの頭の中に閃くものがあった。
立ち働くニーナにそっと呼び止める。
「ニーナ。少し良いですかな?」
「はい、もちろんです!」
ロザンナはニーナをともない、周囲に誰もいない蔵の片隅に移動した。
そして、まるで世間話のように問う。
「ニーナ様は今年でいくつになられましたかな?」
「十八、だけど?」
不思議そうにニーナは小首をかしげた。
何か叱られることをしただろうか、と思うが、ロザンナの口調はとがめるような調子ではなかった。
「ならば十分資格がありますね。エリザ様に許可を得て、少し特別な配達をやってみませんか?」
「特別な……配達?」
ニーナはますます首をかたむけ、頭に疑問符をいくつも浮かべていた。
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