第16話 オルネライア家の誇り

「ニーナがうちの蔵で働きたいそうです」


 エリザはニーナにではなく、ロザンナに話しかける。


「ほう、それは……」


 ロザンナはニーナの顔を思案気に見やった。

 その視線は、エリザ同様に厳しいものだった。

 姉と老メイドの視線を同時に浴びて、ニーナはお尻がちくちく痛むような気分だった。


「ニーナお嬢様は絵の道を捨てるおつもりなのですかな?」


 ニーナの肩がびくん、と怯えたように震えた。

 絵筆を捨てる。

 想像しただけで、絶望的な気持ちに襲われる。

 ニーナはまたしても泣き出しそうだった。


「そうではないのでしょう、ニーナ?」

「う、うん……」


 当人に代わって、姉のエリザが答える。


「当家の蔵で働くことが、絵描きとして次の道を見出す活路になるかもしれない。そう考えたのではありませんか?」

「う、うん、そのとおりなんだけど……」


 それはニーナにとっても、うまく言葉にしにくい思いだった。

 ただ、ナタリアの鉄工房で働いていたときのように、ワイナリーで働く経験を積みたいというのではない。


 絵を描くことが好きで、万能の聖女になるために故郷を飛び出した。

 家業を継ぐ、とう重責を姉ひとりにすべて押しつけて……。


 それが、ニーナにとってずっと、ひそかな負い目となっていた。

 家の仕事を手伝うことで、姉の背負っているものが少しでも分かるのではないか。

 負い目が軽くなるのではないか。


 そんな思いがニーナの中にはあった。

 それは、ニーナがずっと目をそむけ続けてきた宿題でもあった。


 夢破れたいまこの時こそ、次に立ち上がるために、ずっと心をそむけてきた問題と向き合わなくてはいけない。

 たとえ回り道に見えても、それが次の道を見つけ出す一歩目になるのではないか。

 ニーナ自身、はっきりと言葉にはできないままに、そんな思いを抱いていた。


 姉のエリザは、そこまで含めて妹の思いをすべて見透かしているようだった。


「それはよいでしょう。労働をしようという者に、動機をとやかくいうのは間違っているとわたしは思います。ニーナ、あなたに限らず、ね」

「そう、なの……?」


 エリザの言葉はニーナには、よく呑み込めなかった。


「ええ。うちの蔵で働く者たちも、その理由は様々でしょう。家族を養うため。金銭を得るため。オルネライア家のブランドに憧れを抱いて働く者。自身のワイナリーを開業するため、経験を積みたいという者もいるでしょう。その胸のうちを問いただすようなことをわたしはしません」

「で、でも……」


 姉の言葉に引っかかりを覚えて、ニーナはさらに問う。


「そしたら、よそのワイナリーの人がうちにきて、技術とか盗んでいっちゃう心配もあるんじゃないの?」


 産業スパイは、フロレンティアの各工房でも深刻な問題だった。

 万能の聖女たちの作品も、あっという間に模倣され、誰がオリジナルだったのかすら人々から忘れられるということも少なくない。


 そうした行為はフロレンティアでは忌み嫌われ、悪質な場合は都市追放などの重い判決がくだされることもあった。

 いったいどんな対策をしているのだろうか、とニーナは疑問に感じる。

 実家のことながら、そうしたことを彼女は何も知らなかった。


「それでよいのですよ」


 けれど、エリザはあっさりと言う。


「うちの蔵で働き、身につけた技術や知識であれば、それはもうその者の持ちものです。蔵を辞めたのち、よそでそれを活かすのも、その者の自由です」

「ほんとに、それでいいの?」

「ええ。それがタスカーナの……いえ、世界すべてのワイナリーという職種の技術向上につながるのであれば、むしろ喜ばしいことです。それは長い目で見れば当家にとっても利のあることだとわたしは考えます」


 きっぱりと言い切るエリザの姿に、ニーナは眩しいものを見るような思いがした。

 姉の経営者としての一面、そしてその理念の一端にはじめて触れた気がする。


 たしかな誇りを感じさせる姉の目は、フロレンティアで脚光を浴びる万能の聖女たちにも勝るとも劣らない力強いものだった。


「エリザ様がそう決められたのであれば、わたしがとやかく言うことではありませんんな」


 ロザンナは賛意も反対もなく、エリザの言葉にただ従うと決めているようだった。


「……すごいね、お姉ちゃん。うちのことだけじゃなくて、ワイン蔵全部のことを見てるんだ」


 姉への引け目は消えなくても、ニーナは自然とそう口にしていた。

 エリザは微かに息をもらすように笑った。


「ありがとう、ニーナ。フロレンティアと違い、さほど広くないこの町で経営をしていれば、おのずとそういう思考に至りますよ。それに、わたしにはワインのこと以外、何もありませんから」

「そんなこと……」

「っと、話がそれてしまいましたね。ニーナ、あなたのことに話をもどしましょう」


 エリザの顔つきは、また経営者としての冷然とした表情に戻っていた。

 ニーナも、崩れかけていた居ずまいを正し、姉の言葉を待つ。


「ニーナ。あなたの生涯を蔵に捧げろとも言いません。一時的にであれ、ニーナがわたしたちとともに働いてくれるのであれば、歓迎すべきことです」

「そうですな」


 ロザンナも軽くうなずく。

 その表情と声音からは、何を感じているのかはまったく分からない。

 当主であるエリザの言葉に単純に相づちを打っただけか、それとも心から賛同しているのか……。


 ニーナは何か言おうと口を開きかけたが、エリザの鋭い視線を浴びて押しだまる。


「ですが、腰かけのような気分で蔵に入ることは決して許しません」

「そ、そんなつもりは……」

「しばらく、わたしの話を聞いてもらえますか、ニーナ?」


 またしても有無を言わせない声音だ。

 ニーナはただ、無言で首を縦に振ることしかできなかった。


「先ほどのわたしの言葉とやや矛盾するようですが、働く動機は問いません。ですが、蔵に立ち入る以上、真剣に……命がけで臨んでもらいます」

「命がけ……」


 言葉のとおり、エリザのたたずまいは鋭い刃を突きつけるようだった。


「決して大仰な言葉ではありません。オルネライア家はこのタスカーナの町で唯一、ワインにするための自家用のブドウ畑を持たないワイナリーです。これがどういうことか分かりますか?」

「えっと、自分の畑を持っていないのは……」


 ニーナは真剣に言葉を選びながら答える。

 ここでうわべだけの回答をしたり、間違った答えであったなら、エリザは絶対に蔵には入れてくれないだろう。

 そんな予感があった。


「自分でブドウを作らなくても、持ち込んでくれる人たちがいるから……。それだけ、オルネライア家がワイナリーとしてブランド価値を認められているから……。つまり、町のブドウ農家の人たちから信用されているってこと……」


 エリザは厳しい表情を崩さないままながら、満足そうにうなずいた。


「そう、“信頼”です。その言葉を決して忘れてはなりません。ブドウ農家の皆さまが血と汗を流して作った収穫物を、当家なら最高のワインにしてくれる、と信頼して持ち込んでくださっているのです。その信頼をないがしろにするようなことがあれば、蔵など一瞬で潰れることでしょう。蔵に入る以上は、あなたの働きには、それだけの責務があるのです」


 ニーナは、口の中でごくり、と生唾を飲んだ。


「あなたはわたしと違い、一生をワイン蔵と添い遂げる者ではないでしょう。それはよく分かっています。ですが、蔵にいるときは、職人としての誇りと覚悟を持ちなさい。それがあなたの申し出を受け入れる条件です」

「は、はい……!」


 自然と、ニーナはそう返事をしていた。


「身内びいきなど一切しません。あなたにはロザンナの下について、徒弟として働いてもらうことになります。辛い仕事となりますが、覚悟はありますか?」

「それは……」


 肩にとてつもない重圧を感じる。

 けれど、それは不快な感覚ではなかった。


 姉としてではなく、ワイナリーの当主として。

 エリザは自分のことを、ひとりの大人として扱ってくれている。

 それがニーナには嬉しかった。


「……あります。蔵にいるあいだは、お姉ちゃん……ううん、エリザとロザンナのことは親方だと思って、必ず指示に従います。最高のワインを作るために、わたしにやれることは全力でやります」


 まるで、鉄工房の親方、ナタリアに向き合っているようだった。

 ニーナの目からはもう、涙は乾いていた。

 エリザとロザンナは、その視線をまっすぐ受けとめ、ほとんど同時にうなずいた。


「良い目をするようになりましたね」


 そして、エリザは柔らかく微笑んだ。

 ニーナにとって、はじめて見る姉の表情だった。


「その覚悟があるなら、わたしから言うことはこれ以上ありません。さあ、仕事のことは明日以降にして、いまは家族として食事をしましょう」

「うん……!」


 ニーナは息をはずませ、大きくうなずく。


 緊張からか、泣いていたせいか、喉がいつの間にかカラカラに乾いていた。

 ワインを口にすると、心地良く口の中を潤してくれる。


 最初に飲んだときよりも、ずっとおいしく感じられた。


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