第15話 かんぱい

 ニーナの怯えた顔などまったく気にもしていない様子で、エリザはグラスを軽く持ち上げた。


「さあ、そんなことより乾杯しましょう? ニーナ」

「う、うん……」


 ニーナはその姿に、なつかしい、と言うよりもつい昨日までこの家にいたかのような錯覚を抱いた。

 安堵感と、それを上回る苦手意識が同時に胸に湧き上がる。


「それでは妹の帰りを祝して」

「う、うん。ただいま、お姉ちゃん」

「お帰りなさいニーナ。乾杯」

「か、乾杯」


 ニーナも、そろそろとグラスをかたむける。

 ワインの飲み方は、いまよりずっと小さい頃から叩き込まれていた。

 軽くグラスを回し、香りを十分に味わい、一雫舌の上に垂らすようにして、口に含む。


 熟れたブドウの芳醇な香りと、複雑味が余韻になって、舌から消えなかった。

 かぱかぱ飲んでいいたぐいの一品ではないことは確かだった。


「……これすごくいいワイン、だよね? しかもかなり熟成させてるやつ」


 ニーナはワイナリーの家系に生まれながら、そこまで酒が好きということもなかった。

 フロレンティアでも、年に何回か工房のみなと酒場に繰り出したていどだ。


 そのニーナでも、はっきり分かる上等のヴィンテージワインだった。

 驚いてニーナが問うと、エリザはふふっと声に出して軽く笑った。


「あなたも、お酒の味がわかる歳になったのですね。ええ、この一本はあなたと同い年。そこそこの年代物と言っていいでしょう」

「十八年もの!?」


 自分といま飲んだワインが同い年と言われるのは、なんだか不思議な気分だった。

 ひどくもったいないことをしてしまった気がする。


「このレベルのワイン、フロレンティアの都会では貴族でもなければなかなか飲む機会はないでしょう。ワイナリーの特権というものです」

「うん……。っていうか、いいの、お姉ちゃん? こんなの空けちゃって?」

「妹の再会に酒をケチる姉などいません。せっかくですから、たくさん飲んでください、ニーナ」

「う、うん……。でもわたし、お姉ちゃんみたいにお酒強くないから……」


 ニーナは完全に姉のペースに呑まれながら、チーズや干し肉をつまみ、ちびちびとワインを喉に流し込む。

 もう味もよく分からなくなっていた。

 なんとなく息苦しさを感じるのは、濃厚に熟成したワインの香りのせいか、それとも……。


 ――けど、お姉ちゃんに向き合うって決めたんだ。


 意を決するように、ぐっとグラスの中身を大きく空ける。

 いつまでも気圧されてばかりもいられない。

 自分は、ここから再出発すると決めたのだから……。

 

 ニーナは食器を静かに置き、まっすぐに姉の目を見つめた。


「あのね、お姉ちゃん」

「なんですかニーナ?」

「大聖堂のコンテストのことは知ってるんだよね?」

「ええ。ナタリアから手紙で、おおよそのことは聞いています」


 慰めるでも気づかうでもなく、淡々とエリザは返す。


「うん。それで……」


 ニーナの胸の内で、落選のショックがまたよみがえってくる。

 それを姉の前で認めるのはつらかった。


 ニーナは自分の気持ちを整理するように、胸に手を押し当てて、ゆっくりと呼吸を整える。

 エリザにも、妹の真剣なさまは伝わったのだろう。

 何も言わず、ニーナの次の言葉を待っていた。


「わたし、すごく悔しかった。何日もずっと泣いちゃって。それでも全然悔しい気持ちが消えなくって。今度こそ、絶対に、と思ってたのに……」

「それだけ、ニーナが真剣に挑んだということでしょう。その想いは尊いものとわたしは思います」

「……うん。親方もそう言ってくれた」


 喋りながら、ニーナの目にまた涙がにじんでくる。

 けど、泣きながらでも言葉をつむごうと必死だった。


「ほんとはわたし、もっともっとがんばりたい。結果が出るまで何度だって挑戦したい。でも……でも。何をどうがんばっていいのか、分かんなくなっちゃって……。あれ以上のものが、いまの自分に描ける気がしなくって。それで、それで……」

「ええ。たとえ三年間離れて暮らしていても、あなたのことはよく分かっているつもりですよ、ニーナ」


 泣きじゃくるニーナに対し、エリザは毅然とした態度を崩さない。

 まるで、甘やかしそうになる自分を抑えているようでもあった。


「あなたが全力でがんばったこともよく分かります。ですが……」


 エリザは冷徹とも呼べる表情で、ニーナを見つめていた。


「結果は結果です」

「……ッ」

「それを認めなければ次に進むこともままなりません。だから、あなたはここに戻ってきた。そうですよね?」

「……うん」


 ニーナはか細い声でうなずき返す。


 ――ほんとにお姉ちゃんは、なんでもお見通しだ……。


 と悔しさ半分、安心感半分に思う。

 声が涙ににじみ、うわずりそうになるのを抑える。

 気持ちを落ち着けてから、ゆっくりともう一度口を開いた。


「……親方からもね。コンテストのことは一度忘れて、故郷に帰って距離を取れって」

「ええ。ナタリアはよくあなたのことを見ていてくれたようですね。それがあなたのために最善であると、わたしも思います」

「うん、だから……」


 ニーナはごくり、と生唾を飲み込む。


「うちの蔵でしばらく働かせてほしい。お姉ちゃんの手伝いがしたい、んだけど……」


 意を決して告げたはずなのに、どうしても最後は言葉がすぼんでしまう。

 エリザは表情を変えずに、そんなニーナの姿をじっと見ていた。


 何を考えているのか、その姿からは分からない。

 ただ、じっと見つめられ、ニーナは椅子を立って逃げ出したい衝動に駆られた。

 なんとかこらえ、じっと姉の次の言葉を待つ。


「……分かりました。いいでしょう」


 ややあって、エリザは小さく首を縦に振った。


「エリザお姉ちゃん!」


 すぐに受け入れてもらえるとは思わず、ニーナは驚いて姉の顔を見つめた。

 けど、そんなニーナに釘を刺すように、エリザのまとう空気がさらに一段厳しいものになった。


 ちょうどそのとき、老メイドのロザンナが料理を運んで食堂にやってきた。

 鶏のソテーに、蒸した野菜や芋が添えられている。


 ワイナリーの名家とはいえ、日常で口にするようなことはない、ぜいたくな料理だ。

 ニーナのために用意されたごちそうであることは、ひと目でわかった。


「ロザンナ、ちょうどよかった。あなたも同席していただけますか?」


 給仕を終え退席しようとするロザンナに、エリザが呼びかけた。

 ロザンナはエリザと、いまだ目を赤く腫らしているニーナの顔を交互に見やる。


「……かしこまりました」


 そして、静かにエリザの近くの席に腰をおろした。

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