第14話 姉エリザ
ロザンナの用意してくれたスリッパを履き、ニーナは食堂まで歩いていった。
屋敷と言っても、そういくらも歩くほどの大きさでもない。
すぐに、食堂の前のドアに行き着く。
「お姉ちゃん、三年ぶりか……」
そう口にすると、無性に逃げ出したい気持ちが湧き上がってきた。
なんの成果もあげられず、三年のときをムダにした自分に対し、姉はどんな顔をするのだろう。
失望の顔を向けられるだろうか。
そう思うと無性に怖くなってくる。
「あ~、落ち着け。わたし……」
妙に心臓が高鳴るのを感じる。
扉を開ける前から、その向こうに姉の存在が感じられる気がした。
手まで汗ばんできた気がする。
「ただ、うちに帰ってきただけなんだから。胸張って、堂々と……」
さっきロザンナに言われたことを口の中で繰りかえす。
――いざってときはエリザと戦え。
親方であるナタリアから投げられた言葉も、また脳内によみがえってきた。
――勇気を出せ、ニーナ。フロレンティアに行きたいって言ったときのことを思い出せ……。
自分に言い聞かせる。
三年前は、いまよりもっと緊張し、怯えてもいた。
それでも、憧れの万能の聖女になるために、思いきって姉に都に行きたいと頼めたのだ。
そのときの勇気を思えば、いまのほうがずっと楽なはずだ。
そう思っても、どうしても二の足を踏んでしまう。
自分でも無意識のうちに、ドアの前でぐるぐる、うろうろとしていた。
老メイドのロザンナがここまで付いてきていたら、さぞ呆れたことだろう。
「ただいまって言うだけ。それだけなんだから……。よしっ、いこう。いくぞ!」
ぶつぶつとつぶやきながら、おそるおそるドアノブに手をかける。
と、その瞬間を見計らったかのように、ドアが内側から開いた。
「ニーナ? そこにいるのですか?」
「うおわっ!?」
意をけっして中に入ろうとしたニーナは、思いっきり前につんのめる。
そのまま食堂の中にいた相手にぶつかりそうになった。
――なんか最近、同じことやった気がする。
すっ転びそうになりながらも、心のどこかでそんなことを思う。
けど、そのときと違って、中にいた人物はダイブするニーナをひょいっと避けた。
「うわっぷ!?」
ニーナは転ぶ寸前で、なんとか踏みとどまった。
ずん、と床を踏む音が食堂に響いた。
「何をひとりでやっているのですか、ニーナ?」
呆れ半分、いぶかしさ半分と言った目で相手はニーナを見ていた。
「あ、あはははは。エリザお姉ちゃん、ただいま」
ごまかすような乾いた笑いを上げながら、ニーナは頭をかく。
堂々と胸を張ってあいさつするんだ。
そう心に決めていたのが台無しだった。
「お帰りなさい、ニーナ」
まだ呆れ声ながらも、一応というようにエリザも返した。
「あいかわらずのそそっかしさですね。三年ぶりという気がまるでしません」
「……お姉ちゃんもあいかわらず、って感じだね」
「お陰様で。変わらず健やかに暮らしています」
ニーナのどこか含みのある声音に対し、エリザは肩を軽く肩をすくめて答えた。
「さあ、ニーナ。そんなところに面白い格好で突っ立ってないで、早く中にお入りなさい」
「ああ、うん……」
優雅にきびすを返すエリザ。
長い髪がふわりと広がり、たったそれだけの動作が優雅に見える。
それでいて、その立ち姿には一分の隙も見えない。
――ほんとにあいかわらずだなぁ、お姉ちゃん。
なんとなく気勢が削がれてしまったように、ニーナもそのあとに続いた。
町の者たちを招いて食事をすることもある食堂は、この屋敷で一番大きな部屋だ。
十人は並んで食事ができる丸テーブルの奥の席にエリザが座った。
その向かい側にニーナも座った。
こうして大きなテーブルを挟んで姉と対面すると、また緊張感がぶり返してくる。
「ニーナ。まずは三年間、よくがんばりましたね」
にこりともせずに、エリザは言う。
ニーナはうつむきそうになるのをこらえ、まっすぐその目を見返した。
「お姉ちゃん、わたしは……」
「待って。積もる話は明日にでもしましょう。まずは、妹の帰りを祝って、いっぱい、ご一緒してください」
やはり表情を変えないまま、エリザはテーブルの上のボトル瓶を目で指した。
「お腹は空いていますか、ニーナ」
「うん、まあ……」
「すぐにロザンナが料理を作ってくれるはずです。まずは簡単につまめるものとワインだけで、がまんしてもらえますか?」
「うん。それはもちろんいいけど……」
完全に姉のペースに流されているのは自覚するけど、どうすることもできない。
あっという間に三年前に逆戻りしたような気分だった。
ワインの他に、テーブルの上にはチーズと薄くスライスした干し肉の入った皿が並んでいた。
エリザは慣れた手つきで、ボトルのコルクを抜き、ふたり分のグラスにワインを注ぐ。
「……良い香りです」
満足そうに軽くうなずいたあと、今度はつまみを取り分けた。
「あっ、お姉ちゃん。自分のぶんくらいわたしが……」
「あなたは、今日のところは客人のようなものです。これくらいわたしにまかせてください」
柔らかな、けれど有無を言わせない声でエリザは言う。
腰を浮かせかけたニーナは「うん」と小さく口の中でつぶやき、肩をすぼめてしまう。
手早くも優雅な手つきで、エリザはグラスと皿をニーナの前へ差し出した。
ニーナの姉エリザは、まるで騎士の娘であるような凛とした空気をまとった女性だった。
麦色の髪を後ろでまとめ、簡素なワンピースをまとう姿がますます武人めいて見える。
顔立ちは妹のニーナとよく似ているが、まとう雰囲気はまるで違っていた。
土と水を相手にするワイナリーのあるじらしからぬ姿勢だ。
エリザはワイン工房の当主であると同時に、タスカーナ地方に伝わる徒手空拳の武術の遣い手でもあった。
師からも、ワイナリーのあるじでなければ跡取りにしたものを、と惜しまれるほどの達人だった。
文武両道にして、人柄厚く、商才にも長けている。
それが、町でのエリザの評判だった。
妹相手にも丁寧な口調を崩さず、たまに微笑を投げかけても、ごく控えめなものだ。
いくらワインを飲んでも、酔って乱れる姿を家族のニーナですら見たこともない、とてつもない酒豪でもあった。
――似て……ないよなぁ、わたしとお姉ちゃん……。っていうか、エリザお姉ちゃん、三年前より髪伸びてるじゃん。イオはどうやって、わたしとお姉ちゃん間違えたのさ!?
エリザの姿を見ながら、ニーナは早朝のできごとを思い返した。
そもそもが、早朝に大きな荷物を負ってエリザが町中を歩いている、という状況がありえない。
イオには、武道よりも先に、その辺りの観察眼を教えたほうがいいのではないか……。
他人事ながら、そんなことを想う。
「どうしました、ニーナ。変な顔をして?」
「えっ、いやいや、なんでもないなんでもない! その、えっと……イオちゃんにさっき道ばたで会ったなぁ、って思い出しただけで」
「ああ、そうでしたね」
エリザの目がすぅっと細くなった。
その目に射すくめられ、ぞくりとニーナの背が震えた。
「聞けば、わたしと見間違え、わたしのかわいい妹に粗相を働いたとか」
“わたしのかわいい妹”という語に妙に力がこもっていた。
表情はあまり変わらないのに、凍てつくような空恐ろしい気配が混じっている。
近づくものを無条件に切り裂く鋭利な刃のような目だった。
「お、お姉ちゃん、イオは……」
「安心なさい、ニーナ。二度とそのような粗忽な真似をせぬよう、少々仕置きをしておきました」
「お仕置きって何を……」
「ふふふ、あなたが気にするようなことではありませんよニーナ。妹の帰還と比べ、あまりにもとるに足らない些事です」
なんでもないように言う、その小さな笑い声がかえって怖かった。
ニーナは自分が叱られたように、震えが止まらなくなっていた。
「その……お姉ちゃん、あんまりイオのこと叱らないであげてね。わたしもケガとかしなかったことだし、なんやかんやでイオに会って元気づけられたし……」
「ええ。そんな心配せずとも、稽古の範疇ですよ。あなたにも覚えがあるでしょう、ニーナ?」
姉へのちょっとした反発心からやらかしたイタズラがバレたとき。
そのとき姉から受けた“お仕置き“の記憶がまざまざと脳内によみがえるニーナだった。
もはや、その震えはガクガクと形容できるくらい、はっきりとしたものになっていた。
――やっぱりお姉ちゃんと戦うなんてムリだよ、親方!
心の中で、ナタリアに泣き言を垂れるニーナだった。
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