第13話 家の番人
駅から反対側。
青々と広がるブドウ畑に囲まれた、小高い丘へと続く道。
その先に、ニーナの実家はあった。
屋敷と呼んで差しつかえない大きさの家屋だ。
素朴な造りだが、この町に長い年月根づいた堂々たる門構えだった。
家のとなりには、ワイン醸造用の蔵が併設されている。
この蔵も、この町一番の立派な建物だった。
フロレンティアに数多ある万能の聖女たちが手がけた建造物のような華やかさとは無縁だが、それがかえって質実剛健な実用性を感じさせる。
生まれたときからニーナが目にしている光景だった。
「ほんとに帰ってきちゃったんだ……」
またしても、ニーナの足取りが重くなる。
不思議な気分だった。
三年ぶり。
家を出たのは、懐かしいと思うほど昔ではない。
それなのに、何も変わらないはずの光景が、この家に暮らしていたときより、ほんの少しよそよそしくなったように感じられる。
それは、少しはニーナもおとなになったということなのだろうか……。
発酵したブドウの香りが、建物の外からでも鼻孔をくすぐる。
それはニーナにとって、実家の匂いだった。
けど、フロレンティアから戻ったニーナには、それがどこか新鮮に感じられた。
あまりに身近過ぎて特別だとも思っていなかった香りに、はじめて気づいた気がする。
――ここからわたしは、再出発するんだ。
自分に期待してくれている親方のナタリア。
姉弟子のベルタに妹弟子のピノカ。
それに自分の絵をステキだと褒め、町のスケッチを買ってくれた郵便配達員のマリカ。
フロレンティアにいたのはたった一日前のことなのに、彼女たちの姿がもうはるか遠くに感じられる。
ニーナはみなの顔を頭に描きながら、家へと近づいていく。
屋敷のすぐ前まで来ると、ちょうど玄関先を掃き清めている人の姿があった。
呼びかけようとすると、相手のほうがニーナに気づいて顔を上げて、先に声をかけた。
「おや。お帰りなさいませ、ニーナお嬢様」
「……ただいま、ロザンナ」
相手は表情ひとつ変えず、ニーナを見ていた。
まるで、ちょっと買い物に出かけた相手を迎えるようだ。
いくらイオの先ぶれがあったと言っても、もう少し驚くなり喜ぶなりしてくれてもいいのに、とニーナは思う。
三年ぶりの再会という感じがまるでしなかった。
「お荷物お持ちしましょうかな?」
「いいよ、これくらい。自分で持てるから」
「ほう、さようですか。ちょっと見ないあいだに、たくましくなられましたな」
「そりゃ、わたしだって十八歳だよ。いつまでも子ども扱いしないでよ、ロザンナ」
孫を見るようなロザンナの目に、ニーナは苦笑してしまう。
ロザンナは先先代からニーナの生家、オルネライア家に仕える、大ベテランのメイドだ。
髪は真っ白でシワだらけの顔ながら、着こなされたメイド服には気品すら感じさせる。
老いてなお盛んというべきか、まったく衰えを感じさせない物腰だった。
老婆と呼ばれるのをこばむように、腰もぴしっとまっすぐ伸びている。
まなざしは鋭く、表情はしわがそのまま固まったようで、ニーナは生まれてからこの方、彼女の笑顔を見たことがなかった。
この家の番人とも呼べる存在だ。
「歳のばかりでもありませんね。ずいぶんと足腰もしっかりなされたご様子ですな。あの泣いてばかりいたニーナお嬢様が」
「もう、子ども扱いしないでってば! そりゃ、工房で三年も揉まれてたから、逞しくもなるよ」
力こぶを作るみたいに腕を曲げて見せるニーナだが、筋肉はかけらも盛りあがらない。
それに、実を言うと泣き虫なのはあまり治ってないのだが、それはナイショだ。
とはいえ、親代わりでもあるロザンナに褒められ、ニーナは鼻高々になって胸を張る。
けど、ロザンナは手放しで何もかも褒めてくれるほど、甘い人ではなかった。
「しかし、顔つきはいけませんな。そんなお顔をされては、エリザ様も困りますよ」
「……そんな顔って、どんな顔さ?」
子どもをたしなめるようなロザンナの態度に、多少の反発心を抱きながらニーナは問う。
「……そうですね。ニーナお嬢様が七つの頃、エリザ様と喧嘩なされて家出されたでしょう」
「でしょう、って言われても……。そんなことあった気もするけど……」
「そのあと、お腹を空かせて夕方ごろ戻られたときのような顔、でしょうか」
「うん。ぜんぜん分かんない、そのたとえ」
七つの頃の記憶なんて、ニーナにはもうあいまいなものだ。
姉と大ゲンカしたことはなんとなく覚えているけど、そのケンカの原因がなんだったのか、いまとなってはまったく思い出せない。
ただ、その晩に家で食べたシチューがあったかくて、やけにほっとしたことだけは覚えていた。
「『ほんとは帰りたくなかったけど、しかたないから帰ってきたぞ』という顔ですな」
「うぐっ。……たしかにそういう気持ちはなくはないけど。そんな顔に出てる?」
「ええ、それはもう」
きっぱりと断言するロザンナの言葉に、ニーナはがくりと肩を落とした。
家に戻ってから再出発のつもりでがんばろう。
そう思っていた矢先に、そんなことを指摘されては、早くもニーナの心はくじけそうだった。
そんなニーナの内心を見透かしたように、ロザンナの目元がわずかにゆるんだ。
笑顔と呼ぶにはほど遠いけど、それだけでニーナの心がほっと落ち着くものがあった。
「ニーナお嬢様は三年間フロレンティアで修行なされたのです。身体つきもずいぶん立派になられました。ですので、そんな顔はされずに、堂々と胸を張ってお帰りになればいいのですよ」
「……分かったよ。できるだけがんばる」
子ども扱いが抜けないロザンナに釣られて、ニーナの口調もつい子どもっぽくなってしまう。
自分に自信なんてまるでない。
けど、ロザンナの言うとおり、しょぼくれていても仕方がない。
――それにしてもお嬢様、って。
三年ぶりの呼び名に、ニーナは内心苦笑してしまう。
工房にいたときは、職人の下っ端だった。
足で蹴られ仕事を叩き込まれても文句も言えないような立場だ。
なんやかやでニーナに甘い工房の面々が、実際にそんなことをする場面はなかったけれど……。
「さて、エリザ様がお待ちです。さあ、中へ」
「うん……」
昔と変わらないロザンナの態度に、ニーナはなんだか子どもの頃に戻ったような気分になる。
屋敷の中も、出て行った頃と何も変わらなかった。
三年で大きな変化があるものでもないだろうが、なんだか時をさかのぼったようなふわふわとした気分になるのはどうしようもなかった。
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