第10話 町の絵

 故郷に戻ることが決定してから、ニーナが工房で働く日数は大幅に減った。

 もともと、ナタリアの鉄工房は一つの製作に二、三ヵ月を要するような発注が多い。


 ニーナが半端に仕事を請け負っても、やりきれなくなってしまう可能性があった。

 それに、帰郷までの準備もあるだろう、というナタリアたちの配慮もあった。


 もっぱら、姉弟子のベルタや妹弟子のピノカの請け負った仕事の手伝いに専念していたが、それも手を出しすぎるとニーナがいなくなったあとに困る。


 故郷に戻ることが決まって、もっと落ち込むだろうとニーナは思っていた。

 けど、帰郷の日が近づくにつれ、意外にも肩の力が抜けていく感じがした。


 いままで気負って背負い続けてきた、重い荷物を下ろしたような気分だった。

 それも、あの日、親方ナタリアが部屋にやってきてくれたおかげだ。

 そうでなければ、いまも、ぐじぐじうじうじと悩み続けていたに違いない。


「……よしっ、今日はこの辺りにしよう」


 ヒマのできた日々を、ニーナはフロレンティアの街並みをスケッチして回ることに費やしていた。

 皮肉なことに、街を去ることが決まってから、この街のありかたが、いままでよりもよく見えてくる気がした。

 いままで素通りしていた道の一本一本に個性があった。


 石畳の道にも、普通の民家や商店にも、造ったものと住むもののこだわりが感じられる。

 どの建物も、風景と調和しながらも、それぞれの存在感を主張している。


 さすがは芸術の都と謳われるだけのことはある。

 華やかな表通りはもちろん、ニーナの暮らす裏市街のほうにまで、ささやかな工夫は随所に見られた。


 猫の額ほどの小さな庭に植えられた小さな白い花、おんぼろのドアに据えつけられた犬の頭を模したノッカー。

 そのひとつひとつが愛おしいものとして、ニーナの目に映った。


 ニーナは、行き交う人のジャマにならない場所を見つけては腰を下ろし、素描で街の様子をスケッチする。

 故郷に帰るまでのあいだ、できるだけたくさん描きたかった。

 コンテストとも仕事とも無縁のスケッチだけど、何かそれが気持ちの区切りになるような気がしていた。


「あっ、あれ? えっと、たしか、ニーナちゃん。……ですよね?」


 不意に名前を呼ばれた。

 そちらを向くと、そこに立っていたのは……。


「あっ、郵便配達のお姉さん!」

「はい。マリカです」


 大聖堂からの通知をニーナに渡した、配達員のマリカだった。

 あの日と同じように、制服に身を包んだパリッとした姿だ。

 肩からは郵便カバンを下げていて、今日も仕事の途中なのだろう。


「ニーナさん。こんなところで何を……って、すごッ!?」


 マリカはニーナの手元のスケッチを覗きこんで、驚きの声を上げた。


「あっ、これはぜんぜん。大したものじゃないです。ほんと、人に見せられるようなものじゃなくて。サッとスケッチ……ほとんど落書きみたいなもので……。いや、そんなじっくり見ないでください。ああ~、恥ずかしい……!」


 ニーナはあわてて、スケッチを腕で覆って隠してしまう。


 謙遜でもなんでもなく、人に見せられるような代物だとは思っていなかった。

 けれど、マリカは目を輝かせ、鼻息荒く返す。


「いやいやいやいや、大してます! すっごくすごいです」


 語彙力が喪失するほどの興奮ぶりだった。

 さらに、いま描いている絵だけでなく、ニーナの横に何気なく置かれた紙の束にも目をうつす。


「これ、見てもいいですか?」

「え、ええ~! そんな人に見せられるようなもんじゃないですよ」

「そうなんですか……。残念です」


 と、マリカは一度うなずいたものの、親に買ってもらえないお菓子を見るような未練がましい目で、ちらちらと紙束に目をやる。


「……どうしても、ダメですか?」

「うっ。どうしてもってわけじゃ……。マリカさんにだったら、その、まあ、いいですけど……」

「やったぁ! それじゃさっそく」

 

 ニーナの気が変わらないうちにと、マリカは素早くスケッチの束を手に取った。

 そして、素描の一枚、一枚を丹念に見て「おお~」とか「すごい!」とか簡単の声を上げる。

 そのたびに、彼女の目の輝きが強くなっていた。


「あ、これはアールバトロ通りの八百屋さんですね。それにこっちは、ビヤンコ広場の脇の住宅街、あっ、あとこれは……」

「あははは。さすが郵便配達員さんですね。ぜんぶ正解です」


 気恥ずかしさは消えないけれど、心から楽しげなマリカの声に釣られ、ニーナも軽く笑い声をあげた。

 ひと通りのスケッチを見終わったマリカは、うっとりと感嘆のため息を漏らす。


「はぁ……ほんとにすごかったです。なんて言ったらいいのかちょっと分からないですけど……。ホンモノのフロレンティアよりもずっと“フロレンティア”って感じがしました」

「えっ?」

「あっ、すみません。わたし、芸術とか全然分からなくて。トンチンカンなこと言ってるかもですけど……」

「ホンモノのフロレンティアより、フロレンティア……」


 マリカの言葉は、なぜかニーナの心に深く突き刺さるようだった。


「あれ? けど、わたし、絵とか全然詳しくないので間違ってたらごめんなさいなんですけど……。万能の聖女さんの絵ってもっと、なんというか、神々しいっていうか、その……」

「いえ、間違ってないですよ」


 ニーナは苦笑ぎみに返した。

 その笑いには、少し自嘲の念も混じっていた。


「万能の聖女に求められる絵画は、神様、女神様、天使様、神話や歴史の中の英雄を描くことです。それ以外はわたしも見たことないです」

「そう、ですよね、やっぱり。じゃあこれは……」


 不思議そうなマリカの声に、ニーナは小さく笑って返す。

 

「なんでこれは、たんなる落書き。自己満足です」

「そう……なんですか? こんなにすごい絵なのに」


 すごくないですよ、とまた同じことをニーナは言いかける。

 けど、それよりも早く、マリカがひとり言のような調子でつぶやいた。


「神話の絵よりこっちの方がわたしは好き……ですけど」

「えっ?」

「ごめんなさい。芸術の価値がよく分からない人間で……」

「いえいえいえいえ、ぜんぜんそんなことないです。とっても嬉しいです」


 何か大事なことを言われた気がする。

 けど、それがうまく形になって頭の中でまとまらない。

 と、急にマリカはもじもじとしはじめた。


「あの、ニーナさん。もし、できたらなんですけど……」

「はい?」

「この絵、売っていただくことできないでしょうか。わたしのお給料じゃ、全然足りないかもですけど……」

「えっ、えええ〜!?」


 マリカの懇願にニーナは驚きの声を上げた。

 あわてて、ぶんぶんと首を振る。


「いやいやいや、ほんとただの落書きなんで、これ。こんなものにお金なんて取れませんよ! もし、もらってもらえるならこのまま差し上げます」

「えっ、ふぇぇ〜!?」


 今度は逆にマリカのほうが驚きの声を上げる。


「ほ、ほんとにいいんですか?」

「マリカさんがいいのであれば……」

「いいです! いいに決まってます!! というか、めちゃくちゃ嬉しいです」


 大げさなほどに喜ぶマリカに、ニーナは困惑を深める。


「……あの、人にあげるものとなったら、さすがにこれじゃ申し訳ないので、仕上げ、してもいいですか?」

「えっと、もう十分すごいのに……。でも、もしできるなら」

「一、 二時間くらい掛かっちゃいますけど……」

「あ、そしたらわたし、配達を終えてもう一度来ます。絶対。必ず!」

「わかりました。そしたら、それまでに仕上げ、やっちゃいます」


 妙なことになった、と内心思いながらもニーナは笑顔を作って請け負った。

 マリカは「絶対待っててくださいよ」と何度も念を押ししながら、駆け足で仕事に戻っていった。


 ニーナはその背を見送った後、急いで仕上げにかかった。

 一枚の絵に時間をかけられないので、テンポよく描き足していく。


 絵のデキそのものより、誰が見ても街の特徴がよく伝わるように、という点を重視した。


 通りにはそれなりに行き交う人たちもいた。

 ニーナの描いている絵を覗きこむ者も中にはいた。


 けれど、ニーナは周囲の音がほとんど耳に入らなくなっていた。

 一心不乱に絵に集中し、日が傾いているのにも気づかなかった。


 町の街灯に明かりが点くころ――、


「ニーナさん。ニーナさん。……ニーナさん!」

「ふぇっ?」


 大声で呼びかけられ、はじめて気づく。

 顔を上げると、マリカがそばに立っていた。


「すみません、遅くなって」

「いえいえいえ。もう配達の仕事は終わったんですか?」

「はい、バッチリ終わらせてきました」


 マリカの笑顔をまぶしく感じながらも、ニーナはたったいま最後の一枚まで描き直し終えたスケッチの束を差し出す。


「あ、あの、こんな感じになったんですけど……」

「うわぁ! すごい、ほんとにすごいです! さっき見たときもすごかったけど、もっと、もっとすごくなっています!」


 マリカはそれを受け取るなり、「すごい」を連発した。

 どんな雄弁なお世辞よりも、その輝く表情とはずむ声が興奮を伝えてくる。


「ありがとうございます! 部屋に飾って、宝物にします」

「そんな大げさな……」

「大げさじゃないです! 毎朝、この絵を見てたら、もっとこの街が好きになって、配達も頑張れそうです」


 絵描き冥利に尽きる絶賛だった。

 けど、ニーナはなんと返していいか分からなかった。


 自分に、そんな褒め言葉を受け取る資格はないような気がした。

 なんの結果もあげられていない自分に……。


「ニーナさんなら、次こそ絶対コンテストも獲れると思います。がんばってください! わたし、応援してます! それじゃ、ほんとにありがとうございました!!」

「あっ」


 マリカは、ニーナが押し黙ってしまったのを謙遜と受け取ったようだった。

 深く頭を下げると、大事そうにスケッチを胸に抱えて、走り去っていく。

 呼び止める間もなかった。


 ――もう自分は、フロレンティアを出ていくんだ。


 そう言いそびれてしまった。


 マリカの後ろ姿を、ニーナは複雑な思いでぼんやりと見送った。 

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