第9話 回り道

 軽く唇を舌で湿らせて、ナタリアは話を続けた。

 ニーナもじっと親方の声に耳をかたむける。


「お前の描いた天使の絵は柔らかくて人間味があって、あたしは好きだ。あたしのような人間ですら見るだけで、じわっと心がほっとするような気分になる。間違いなく、お前がいままで描いた中で最高のデキだ」

「……はい」

「……けどな。大聖堂ってのは、教会の連中の権威の象徴でもある。やつらが求めてる天使ってのは神々しく偉大なものだったんだろうさ」

「……審査員が欲しかったのは、ラファエラさんの三美神のような、神々しさがあふれるような絵だったってことですよね」

「まあ、そうだな。ラファエラはそのへんうまいからな。自分の個性を出すのは、万能の聖女の資格を手に入れてからでいいって割り切れるタイプだ」

「たしかに……そういうとこわたし、すごくへたっぴだと自分でも思います。自分の絵が万能の聖女のイメージに合わないっていうのも分かってるし、もっとフロレンティアの流行も審査員さんが求めるものも勉強しなきゃって思うんですけど……。描くとどうしても、自分の絵になっちゃうっていうか。わざとやってるわけじゃないんです。けど、でも自分で一番だと思うものを描こうとしたらつい、というか……。こんなんだからわたし、いつまでも結果が出なくて……」


 せっかくナタリアに褒められたあとなのに、ニーナは自己嫌悪のスパイラルにまたも陥ってしまう。

 だんだんと自分でも何を言ってるのか分からなくなるまま、どんどんと落ち込みはじめる。

 ナタリアはニーナが弱音を吐きだし終わるまで、口を挟まずじっと聞いていた。

 ニーナの声が小さくすぼみ、消えていくのを待ってから口を開く。


「お前はそれでいいんだよ」


 きっぱりとした断言だった。

 うじうじと落ち込んでいたニーナも、思わず顔を上げるくらいの力強さだった。


「あ〜、つまりな。お前にはお前のやり方があるはずだって話だ」

「わたしの……やり方ですか?」

「ああ。もちろん、ラファエラのやつは立派だ。そこを否定しちゃいけねえ。この絵なら、大聖堂の荘厳さにぴったりだ。クライアントの求めに応じたものを出せるってのは、万能の聖女にとって、もっとも大事な能力だと言っていいからな。お前も、ひがんであいつの才能をけなしたりすんなよ」

「しませんよ、そんなこと! 素直に負けだ、としか思えません」

「ん。まあ、お前のそういうとこは立派だよ」


 ニーナには、いまだナタリアが何を言いたいのか、分からない。

 褒められてるのかけなされているのかも、よく分からなかった。

 いつも明瞭な指示と、的確な指導で工房を取り仕切っている親方らしからぬ言動だった。


「ニーナ。おまえの才能を活かせる道は、フロレンティアの万能の聖女とは違うのかもしれねえ、ってあたしは思うんだ」

「……じゃあ、どうすればいいと思いますか?」

「分からねえよ。それが分かったら、こんなまわりくどい言い方はしねえよ!」

「そんな逆ギレされても……」


 ナタリアは乱暴に頭をかく。

 うまい言葉が見つからなくて、もどかしく感じているようだった。


「けどな、あたしは期待してんだ。あたしも見たことないもんを、お前なら見せてくれるんじゃねえかってな」

「わたしが……親方も見たこともないようなものを、ですか?」


 ニーナには、おうむ返しに問い返すことしかできなかった。

 自分が何を言われているのか分からない、という顔だ。

 けど、ナタリアの声音はどんどん真剣味を帯びていく。


「そうだ。期待してる。それが一番ぴったりくる言い方だな。お前がそいつをあたしに見せてくれると思うと、すげえワクワクしてくるんだよ」

「で、でも親方、故郷に帰れって言ったのに……」


 誰よりも厳しく、適当なお世辞など絶対に言わない人だ。

 そのナタリアに、二度も期待してる、と連呼されるとは、ニーナは思いもしなかった。

 けど、そこまで言いながら、ナタリアは自分に故郷に帰れと言っているのだ。

 それはひどく矛盾しているように、ニーナには感じられた。


「ああ。それがお前のやり方を見つけるのにいい、とあたしは思う」

「故郷に帰ることが、ですか?」

「そうだ。回り道に見えるかもしれねえけど、焦るな。いっぺん戻ってみろ」

「いっぺん……」


 ナタリアの言葉に、ニーナは盲点を突かれたような気がした。

 故郷に戻ったなら、絵筆は投げ捨てなければいけないものと思い込んでいた。


 二度とフロレンティアに戻ることも、万能の聖女を目指すことも叶わない、そう考えていた。

 けど、そうではないのだ、とナタリアは言っているのだ。

 あくまで帰郷は、道の途中の選択肢に過ぎないのだ、と。


「この街で絵を描いているかぎり、コンテストのことがどうしたって頭にチラつくだろ」

「……忘れなきゃ、ダメですか」

「ああ。駄目、だと思う。一回距離を取れ。それで見えてくるものもある。きっとな」


 親方にそう断言されたなら、ニーナの不安もいくぶん軽くなった。

 ナタリアは重ねて言う。


「ああ。何も選択肢はひとつじゃねえ。故郷に戻ってみて、やっぱりこっちがよかったって思ったら戻ってこい」

「戻ってきても、いいんですか?」

「ああ。そんときは、新人として一から鍛え直してやる」


 ナタリアの言葉に、ニーナはようやく、笑みを浮かべた。

 まだ力弱い、うっすらとした笑顔ではあったけれど。


「そしたらわたし、ピノカちゃんの後輩になっちゃいますね」

「ああ。ちゃんとピノカ先輩って呼べよ。あいつが嫌がったとしてもな」

「そうします」


 実際、ピノカなら故郷に帰っているあいだに、あっというまに腕を上げて、自分なんて追い越してしまうだろう、とニーナは思う。

 その姿を見てみたい、という気もした。


「……でも、もう一度フロレンティアに来るなんて、お姉ちゃんが許してくれないかもしれないです」

「かもな」


 ナタリアもそれは否定しなかった。

 ふたりの頭に、同時にひとりの人物の姿が浮かびあがる。


「けど、お前の人生はお前のものだ。エリザのものじゃない」

「……はい」

「どうしても必要なときは戦え。それで姉貴を傷つけることになったとしてもな」

「…………」


 ニーナはうなずきを返せなかった。

 想像するだけで胸がズキンといたんだ。

 姉に逆らう。

 それがどれだけ恐ろしく、それ以上に苦しいことか。


 ナタリアもそれ以上言いつのることはしなかった。

 話はこれで終わりだ、というように椅子から立ち上がり、ニーナの頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「まあ、なんだ。悔しくって泣きじゃくるくらい、本気で求めるものがあるってのはいいもんだな。それが手に入らなくたって、最初からそんなもんがないやつよりずっといい」


 ひとり言のように、そうつぶやく。

 ふと、ニーナは、なぜナタリアが、万能の聖女を目指さないのか疑問を覚えた。


 親方の腕なら、難しいことではないはずだ、と思う。

 けれど、ニーナがそれを問いかけるよりも早く、ナタリアは足早に部屋の入口へと向かってしまう。

 狭い部屋だけに、あっという間だった。


「じゃあな。邪魔したな」

「あ、は、はい。その……ほんとにありがとうございました!」

「おう、故郷に帰るまでのあいだは、きっちり働いてもらうぞ」

「は、はい。その、よろしくお願いします」


 頭を下げるニーナに、ナタリアは手をひらひらと振って返す。

 戸を開けて立ち去る直前、少しだけニーナのほうを振りかえった。


「故郷に戻っても腐らずに、元気にやれよ」

「……はい」


 ニーナの返事も待たず、ナタリアは扉を閉めて出ていった。

 親方の出ていったドアを、ニーナはしばらくのあいだ、無言で見つめていた。


 やがてきびすを返し、親方が届けてくれた、絵筆道具の入ったポーチを手に取った。


「えっ、これ……!」


 何か、見覚えのないものが入っているのに気づき、ニーナは驚きの声をあげた。

 ポーチの口を大きく開けると、その中には、紙幣がぎっしりと詰めこまれていた。


 ――次に何かをやるときに使え。やり方はニーナにまかせる。


 そんな、殴り書いたような短いメモ書きとともに。

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