第8話 万能の聖女ラファエラ

 親方ナタリアの訪問に、ニーナはあわててランプの灯を入れた。

 薄暗かった部屋がぱっと照らし出される。


 万能の聖女が創りだした魔光灯のランプは、安価で量産が可能で、発明されたのとほぼ同時に、急速にフロレンティアの街中に広まった。


 ニーナのような貧乏な屋根裏暮らしのものにさえ、夜の闇を打ち払う明かりがもたらされる。

 昼の仕事を終えてから、絵画の制作を進めていた彼女にとって、ありがたいことこのうえない一品だった。


 ニーナはベッドの上、ナタリアは作業用の椅子に腰かけた。

 それだけで、膝がぶつかりそうなくらい狭い。


 けど、ナタリアの工房だって、機械がひしめき足の踏み場もろくにない。

 部屋の狭さを彼女が気にしているそぶりはなかった。


「あの、すみません親方。お茶とかないんですけど……」

「かまうな。話が済んだらすぐ出てく」


 ナタリアの表情は、工房にいたときほど険しくはない。

 そのことにニーナは内心ほっと胸をなでおろす。

 視線の逃げ場がないこの部屋で、睨みつけられてはかなわなかった。


「……えっと、それで、話というのは」

「ん……。まあ、あれだ、なんていうかだな……」


 わざわざ家にまでナタリアが来たということは、工房で聞かせられた帰郷についてのことだろう。

 きっと、自分がぐずっているのを見越して、釘を刺しに来たのだ。


 そうニーナは思っていたが、ナタリアは歯切れ悪く咳払いしていた。

 少し間があってから、世間話をするかのような口調で言う。


「今回のコンテストだけどな。ニーナは当選の絵、見たか?」

「えっと、大聖堂のコンテストのですか? それはその、まだ、ですけど……。や、やっぱちゃんとチェックしとかないとダメですよね。サボってたとかそういうんじゃないですけど、でも、わたし、その……」

「別に責めちゃいない。見たのか聞いただけだ」

「あ、す、すみません」

「謝ることでもねえ」


 もう一度「すみません」と口に出しかけて、ニーナは喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。

 親方と工房以外の場で顔を合わせるのは初めてで、どうにも気づまりだった。

 やんわりとフォローしてくれる姉弟子のベルタや、いつも元気いっぱいのピノカがいないのも大きい。


 ニーナがこわごわと目を向けると、ナタリアは「あ~」とか「ん~」とかよく分からない声を出し、しきりに咳払いを繰り返していた。


 ――もしかして、親方も二人きりなことに緊張してる、とか?


 まさか、という思いと、そうかもという納得が同時にニーナの胸をよぎる。

 ナタリアはいかにも職人気質の人間で、仕事以外のことには口ベタな印象もあった。

 ふだん、どんな暮らしをしているのかも、考えてみればニーナはよく知らなかった。


「で、だ。当選の絵の話だったな」

「あ、は、はい」


 ナタリアはぎこちなく言いながら、ふところから一枚の紙片を取り出し、ニーナに手渡した。

 ニーナは、丁寧に折りたたまれていたそれを広げてみる。


「今年の入賞はギオーナ工房のラファエラの絵だ」

「ラファエラさん……。これが入選作の?」

「ああ。と言っても制作はじめたばかりの頃の下絵だけどな。構図やらなにやらは大きくは違わねえはずだ」


 そう言われ、ニーナはまじまじと絵画を見つめた。

 つかのま、親方への憤りも、気づまりな思いも忘れる。

 いや、ナタリアがそこにいるという事実すら、頭の中から消え失せていた。


 ニーナの意識は、完全にその一枚の絵の中へと没入していた。

 三人の女神が互いの肩に手を置き、たたずんでいる。


 その姿態は、生き生きと躍動的なのに、同時に人智を超えた神々しさも漂わせている。

 荒く線を重ねたスケッチなのに、ニーナの心を奪うに十分な迫力があった。


「あふぅ。……下絵でこのすごさ、ですか」


 ようやく目を上げ、感嘆のため息混じりにニーナはつぶやく。


 ギオーナ工房とナタリアの工房は親密な付き合いがある。

 仕事を互いに斡旋したり、技術交換や共同作業も何度もやっていた。


 その付き合いから、その下絵も、もらっていたのだろう。

 ニーナにとっても、ラファエラは顔見知りていどの付き合いはあった。


「すごすぎます。さすが、としか言いようがないです」


 ニーナには、そう言うのが精いっぱいだった。

 完敗だ、と心底思う。


 何を自分はうぬぼれていたのだろう。

 この神々しいという言葉がぴったりの絵を前に、素直にそう感じた。

 特別信心が厚いわけでないニーナですら、美の女神たちへの畏敬の念が自然に湧きあがってくるような迫力だった。


 この絵を前にしたなら、コンテストの落選に落ち込むことすらおこがましいのではないかと思う。

 間違いなく、ラファエラは万能の聖女の仲間入りするのにふさわしい才能の持ち主だ。


「なんていうか、全部が完璧で……。でも、古臭さとかは全然なくて。目が覚めるようっていうか、大聖堂の絵画にぴったりで。……こんな作品が相手じゃ、わたしなんかが勝てなくて当然ですね」

「あたしはそうは思わねえ」


 きっぱりと強い口調だった。

 その思わぬ断言に、ニーナは目をぱちくりとさせる。

 ナタリアは真剣なまなざしで、ニーナの目をまっすぐに見つめていた。


「身内のひいき目抜きにしても、だ。お前の絵のデキが負けてたとは思わねえ。ラファエラのヤツもさすがといえばさすがだけどな」

「え、ほ、本気で言ってます、親方?」

「当たり前だ。あたしが世辞を言うとでも思うか?」

「それは少しもまったく思わないですけど……」


 上流貴族が客としてやってきてもズケズケと言いたいことを言う親方の姿に、ひやひやと肝を冷やしたのは一度や二度ではなかった。

 ましてや、弟子のニーナにお世辞なんて言うはずがなかった。


「じゃあ、なんだ。あたしの目が信じられないか?」

「それもまったく思わないです」


 さっきよりもきっぱりと、ニーナは返す。

 職人の親方としてだけでなく、自分の師としても、ニーナはナタリアのことを心から尊敬していた。

 ナタリアの芸術への知見やセンスは万能の聖女たちにも劣らないものだ、とニーナは、これも身内びいきなしに思っている。

 ナタリアの指導がなければ、大聖堂のコンテストなど、入選はおろか応募するに足る作品も創れなかっただろう。


「なら自信を持て。お前の描いた絵はラファエラに負けるもんじゃなかった。よくやった、とあたしは思ってる」

「あ、ありがとうございます……。でも、じゃあ、何がいけなかったんでしょう」


 ナタリアからニーナがストレートに褒められることなど、めったになかった。

 それはニーナにとっても心から嬉しいことだった。


 けど、やっぱりニーナの思考は「だったらどうして」というところに行き着いてしまう。

 悔しい思いは、どうしても頭から去らなかった。


「ん。まあ、その話をしにきた」


 ナタリアはため息を吐きだすような声で返した。


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