5 晩酌
太陽が沈み始めた頃、私は旅館のチェックインを済ませた。部屋に案内され、暖房の効いた一室に荷物を置き、畳で横になったが最後、部屋は闇に包まれていた。
蛍光灯を点けてバタバタと身支度をし、繰り出した城下町は昼とはまるで異なる景観だった。寒さが増した野外で、アテにならない記憶を頼りに約十分――横道の軒下で、ぼんやりと看板灯に照らされるシルエットを見つけ、私は急いで駆け寄った。
「おそーい!」
目が合うや否や、清々しい文句が放たれた。が、彼女は言いきったあとに目を細め、笑みを浮かべ、「寒いから、はよ入ろ」と私の手首を掴み、半ば強引に場面を進行した。
彼女に続いて入店。小ぢんまりとした店内では、スーツを着た三名の客が座敷で料理を囲んでいた。愛想の良い女将に、誰も居ないカウンターへと案内され、品書に目を通し、我々は地酒と梅酒――昼同様に異なる品を注文した。
料理は女将に勧められた『店主のお任せコース』を頼み、わずかに沈黙が流れる。
「――おふたりは観光ですかい?」
と、気さくな店主。店内はそれほど寒くないが、カウンターの向こうは息が白くなっており、厨房との温度差が窺える。
「私は……お、尾張から」
「わたし
戸惑う私を余所に、稲葉はこの関係を包み隠さず、ただ笑顔で返答していた。横から一升瓶を持った女将が現れ、「
女将が一升瓶を傾けると、グラスから溢れたそれが枡を満たしてゆき、透明な日本酒が朱赤へと染め上げられた。私の前にもグラスが置かれ、「じゃ、かんぱーい」と稲葉。鎮座するもっきりに、こちらからグラスを当てる形で晩酌の鐘が鳴った。
ほどなく稲葉は、なみなみの日本酒を口で迎えにゆき、表面張力がなくなるまで容量を減らすと、グラスを手に取ってそれを口元で傾け、
「ぷはぁ、効くぅ!」
オジサンさながらの感想を響かせた。
「悪酔いしないでくださいね」
「わやになるまで飲まんてぇ。ん……? なにぃ、ジロジロ見て。あ、マルチ商法の勧誘かと思ったぁ?」
「あ、いや……」
「お
「余計、自分が惨めに思えてきました」
「あっ……冗談やってばぁ。でも
今のままでも個性的な稲葉は、目を細めてからグラスを傾ける。そうしてスイッチの切り替えのように、一切の訛りを発しなくなり、終始にやけていた表情も消すと、どこか妖艶さを醸し出した。
彼女の言動に見とれていると、「飲んでみる?」と、枡を滑らせて私の近くに寄せてくれた。色々な意味でのチャンスだったが、
「強いお酒はあんまり」
私は厚意に答えられず、テーブルの上で酒を行ったり来たりさせてしまった。
言葉にできない空気が流れてすぐ、白身魚の揚げ物が運ばれてきた。「いただきまーす」と稲葉。私も自分の皿に箸を伸ばし、話の転換を図った。
「でも稲葉さんはすごいですね。なんか……こう、色んなことに挑戦できて。私は良い歳して臆病で、新しいことを始められないんです」
肴のあとに、梅酒のロックを一口。塩味と糖分のコントラストがたまらない。
「え、キミいくつ?」
「今年で三十路です」
「オジサン……ねえ」
稲葉は私の返答に苦笑しながら、ふたたび料理に箸を伸ばす。「おいひー」と感想を口にし、一献を傾ける仕種が子供っぽかった。
「てか、一人旅する何某くんは臆病じゃないよ」
稲葉は話をつなげるように、ちらっと視線を寄せてきた。
「でも、つまらない工場勤務を休むだけでも、びくびくしてますよ……。たった一日でも文句言われるし、診断書も出せって怒鳴られるし……」
同じ時間に出勤し、ルーティンに縛られる。
マンネリズムな食堂メニューを、胃へ掻っこむ。
わずかな休憩を昼寝に充て、午後に備える。
定時に上がり、
就寝時間になり、起床時間になる。
機械のごとく機械がやるべき
「えっと、稲葉さんのお仕事は何系なんです?」
「あぁ、家でする感じ……かな?」
いわゆるテレワークか。昨今では普及し始めた形だが、私はフリーランスなんて考えたこともない。会社にコキ使われ、雀の涙ほどの給料を与えられるだけの人生。安定はするが、充実しない日々も実感している。
「家が職場だと、休みと平日がわからなくなりそうですね」
「まあ……ね。じゃあさ? もし、毎日休みがあったら何某くんはどうする?」
それは夢のような質問であって、割と地獄の質問だった。人間は、仕事が多いと休みを求める。が、毎日休みだと、職を求めるのだから。
「一週間で楽しくなくなって、ハロワ行くかもです」
結局、どちらにも『不安』が付きまとっているのだから。
「あぁ、わたしも毎日悩んでそう」
目を落としながら、稲葉は小さく溜息をついた。距離は縮まっているはずなのに、なぜか会話が減ってゆく。お任せコースの品がどんどん運ばれてくると、意識もそちらに集中してしまう。寝そべって足を組んでいる蛙の箸置きが、なんだか滑稽で可愛くて――私を馬鹿にしているような顔に見えてきた。
「でも悩みがあるから、成長できるし、変わることもできるんじゃないですかね」
「ふぅむ」
「な、なんて……成長してない私が言うのは変ですね。ははっ……」
流れを変えようと、利いた風なことを言ったあと、私はすぐにそれを撤回する。稲葉は昼間とは別人のように、あごに手を当てて考える仕種をしていた。
数時間前との対比は、私の心身を震わせた。女性に対してコンプレックスがあったはずなのに、彼女に対しては敬遠や恐怖、また毛嫌いという感情がまるで浮かばなかったのだ。
一呼吸。
「――ヨシッ! ねえ何某くん? だったら自分を変えてみない? ホレ」
と、稲葉は枡からグラスを上げると、私の目の高さに差し出してきた。厚くなっているグラスの底部から酒の雫が落ちるのも気にせず、
「飲んでくれたら、わたしも変わろうかなあ。んふふ」
と一笑。威圧的でも高圧的でもないのに、彼女の柔らかい笑みに
初めての一人旅だって、こうして無事に遂行しているではないか。
女性恐怖症なのに、今はもうそれを克服しかけているではないか。
私は勢いで目前のグラスを受け取り、目を瞑り、
「い、いただきます……!」
ぐいっと一口やってみた。
途端、稲葉と手が触れてしまった衝撃が吹き飛ぶくらいの、身体を駆け巡る独特の風味、アルコール度数、また彼女のグラスという事実――すべてが否応なしに私に襲いかかってきて、頭を逆さにされたように後頭部が重くなった。顔をしかめてグラスの置き場に困っていると、彼女は枡を目前まで持ってきてくれた。
が、代わりに半分ほど残っていた梅酒のグラスを奪われ、彼女はそれを自分の口元で傾け、数秒ほどで空にしてしまった。一息、「わたし、自分のこと話すの嫌いなの」と、流し目を向けてくる。
「え、あっ……む、無理に話さなくても大丈夫です――」
「わたしには、高学歴を気取ってる奴の気持ちはわからない。けど、必死にもがいて次に進もうとして、結局上手くいかない人の強がりはわかるよ?」
まるで、こちらの意を汲み取ったかのような発言。反面、
「だって、なにもせず『やらない言い訳』を考えるのが一番ラクだから。不安なんて感じず、今を生きてられれば良いんだよ……誰も彼も」
稲葉は、本当に小さな声で「つまんない」と言った。あるいは、フィルターのかかった私の耳が、そう聞き取っただけかもしれない。それは私への戒めだったのだろうか? それとも自分への――?
「わたしは臆病だから、遠くの世界まで見る勇気がない。見知った町を遠望しては、自分の心を誤魔化してるだけ」
「臆病か……いや、私もそうかもしれません。女性に苦手意識があって、まともにしゃべれないんですから」
「んふふ、キミって経験なさそうだもね」
稲葉の柔らかな毒と笑みが戻ってきて、私にも安堵が戻ってきた。
「なんて言うか……クラスに必ず居るじゃないですか、覇権を握ってる女子グループって。中学の時、その三人組のひとりに恋してたんです」
「青春じゃん」
私は稲葉を、都合の良いお悩み相談員のような立ち位置として見ていたのかもしれない。けれど自制がきかなくて、吐き出さずにはいられなくて――
「ある時、その女子に呼び出されたんです。ウキウキで裏庭に向かったら、告白されて天にも昇る気分になった。けどそれは、私をからかうための告白ドッキリだった。翌日みんなの笑い者にされて……そこから、異性が怖くなっちゃって」
「あぁ、初恋の相手がクズだったんだ」
「ははっ……なんというか。それで、あの時の恐怖を打ち消すために、『女はずるい』って形容を心の中で使うようになって」
吐き出してから思い出す、当時の惨めさ、哀れさ、またそれに付随する孤独感。片思いとはいえ、私は人に裏切られたのだ。
「自己肯定感が低い理由を、昔の出来事のせいにしてる。私はなにもしないクセに、自分は特別だと思いたいだけなんです」
「人間の大半はそんなもんだよ……キミだけじゃない。わたしだって――」
困ったことに、それ以降の記憶はアルコールとともに分解されてしまった。
稲葉の飲みかけの日本酒を空にして――途中から外国語でも聞いているかのように意識は混濁し――宿まで送ってもらって――
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