4 約束
城を出た時、彼女の姿は天守広場にはなかった。とは言え、ほんの一瞬でも案内に付き合ってくれたのだから、それはもう大事な旅の思い出である。
城下町に戻ってからは、
店頭には、リコメンドにしがみつくような気恥ずかしい列ができており、幾人もの若い女性の姿が確認できた。名古屋駅でも一考したが、私は近所の喫茶店にさえ入れない男だ。こんな観光地の『イイネ量産装置』に入店なんて――
「なにぃ? お洒落カフェ見つめてどうしたん?」
「うわっ! ビックリした……!」
私が店の横を通りすぎようとすると、先ほど別れたはずの稲葉が並行し、ニヤニヤしながら顔を覗きこんでいたのだ。
「ビックリしたんはこっちやよー! あんたぁ、おらんようになったもんで」
それによって足を止められてしまい、不服そうな顔で詰め寄ってきたが、
「で? ひとりでカフェ入れんのぉ? あははっ!」
すぐに破顔をもって、からかわれてしまった。それでも嫌な気分はせず、彼女の大きな声に釣られ、私も同様の表情を返していた。
わずかな間を経て、「んだで並ぼ?」と、魔境へ誘いこもうとするのだから恐ろしい。私にとっての大冒険は、稲葉の日常というわけか。
なにを話そう。周りからどう見られているのだろう。
要らぬ緊張によって時間の感覚が狂ってしまい、気がつけば人々が捌け、もうカウンターの前まで来ていた。私たちはまったく異なる注文をしたのち、商品を受け取ると、目についたアウトサイドの席に座って一息ついた。
先ほど渡った橋の赤い欄干と吉田川が目に映り、その渓流の音に心が癒される。
「あぁぁ……ホットが沁みるねえ」
稲葉は注文したオーガニックコーヒーを何度か口にし、
「寒すぎるせいか、外の席は空いてますね」
私もかじかむ手でマグを握り一口、二口と進めた。
知り合いのごとく向かい合っているが、私はまだ彼女の顔をまともに見られていない。容姿、知識が人並み以上で、当たり前のように飲んでいるコーヒーだってシュガーフリーなのだから、劣等感が次から次へと溢れ出してくる。砂糖たっぷりのカフェラテをテーブルの上に置いているだけで、羞恥プレイを受けている気分だった。
唯一、彼女に勝てる部分といえば長年培った――体重くらいなものだろう。
「あの……本当に綺麗な町ですね。あ、あちこち
「ふふっ、『水の町』なんて注目されんのは城の麓――この城下町だけやよ。わたしん家、こっから歩いて二十分くらいのフツーの住宅街やし」
「一部分だけを切り取ってキャッチコピーにするのは、観光地あるあるですよね」
しかし意外だった、私がこんなに異性としゃべれるなんて。
学生時代にできた心の腫瘍によって、現在でも女性との会話を避ける傾向にあるのだが、稲葉には不思議な安心感を覚える。言い表せない、なにか――
「ほんで? スマホを使わん遠藤
「いやぁ……食品サンプルは、あんま興味ないかもです」
「んふふ。キミはサンプルなんかより、メープルのほうが好きそうやね」
言いながら稲葉は、一般人より少しだけ発育の良い私のお腹を――もとい脂肪を見て、ニヤニヤし始める。
「すぐ食べちゃうクセは治さないと……」
「大事なのは食事の質やお。野菜と魚も食べてみやぁ」
言いながら笑みの感度を強める稲葉。彼女のぐうの音も出ない正論に、私はただただテーブルに目線を寄せてしまった。
「独り暮らしなもんで……気をつけます……」
「まっ、体に悪い物は美味しいで、しゃーないけどさ」
互いのマグが空になろうかという頃、私の腹の虫は『飯をよこせ』と、ざわめき始めた。
「何某くん、夕飯どうするん?」
そんな浅はかな思考なんてお見通しと、稲葉が首を傾げた。
「いや、特には。稲葉さんのオススメの店ってあるんですか?」
「そんなのテキトーに決めればええが。他人の舌ほどアテにならん評価なんてないよ? それとも誘っとるん? んふふ」
「え、あっ……そ、そ……そんな下心じゃないですってぇ!」
「変な妄想しとったらかんで? ほら、旅の夜はコレが要ると思て」
と稲葉は、
「そういや、良さそうな居酒屋知っとるんやけど、誰か付き合ってくれんかなあ。アテにならん他人の舌で良ければやけど」
彼女の朗らかな顔が、私の心を鷲掴みにしてきた。
「わ、私で良ければ……!」
「郡上も美味しい日本酒あるから安心しやぁ」
そうして次の瞬間には、甘いお酒しか飲めない私を、たった一言で越えてくる。この妙な敗北感にも慣れが生じ、むしろ心地良くなり始めていた。
鼻呼吸するほんの一瞬、川の音が遠くなり、私の頭をぼうっとさせる。目の裏は重くなり、郡上の寒さが曖昧になってゆくと、流れに身を任せている自分と、その場に踏ん張ろうとする自分とが、妙な小競り合いを始めていた。
もしこの女が、悪徳な勧誘とか美人局とかだったらどうするのか? 純粋な疑念を抱こうとする意識が、稲葉の主体性に飲みこまれてゆく。
彼女はスマホの地図アプリを操作し、「んだで、ここで待ち合わせね」と一息。私に見せてくれたのは、ピンを挿した一軒の居酒屋だった。
「十九時くらいね」
「迷ったらごめんなさい」
「そん
稲葉は語尾を匂わせ、「んふふ」と口角を上げてみせると、マグの残りをぐいっと飲み干し、話の区切りをつけた。危なげな約束を心に引っ提げ、店の前で手を振ると、私は彼女の背中が見えなくなるまで見送った。
負の感情とは異なる不自然さを抱きながら。
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