6 出発!
翌朝。
胃のむかつきはなかったが、わずかに頭痛が残っていた。
体は臭くないので、温泉には入ったらしい。
「やばい、記憶がない」
不完全燃焼のままチェックアウトを済ませ、旅館の入口を背に、バスの予約時間と二次元コードを印刷したA4紙を取り出した。
「十三時半過ぎまで時間潰すか」
今日こそ、ひとりカフェに挑戦してみようか?
できるのだろうか? 私ひとりで――
「やっほー」
午前中の予定を組み立てている最中、横から放たれたのは初対面を模すような挨拶だった。私は声のほうへと目線を移し、その女性の顔を見据えた。
「時間ある?」
この予想外の遭遇に私は必然性を感じ、それでも不自然に脈打つのを感じた。
「稲葉さん……」
昨日入店したカフェで、昨日同様にアウトサイドテーブルへ落ち着くと、初対面の出来事がずっとずっと以前のものに感じた。
感慨も程々に、私は注文した無糖コーヒーを両手で持ちながら固まっていた。注文を口にするだけでも緊張したそれを、今度は本当に口にするのだから、心臓のBPMは150にも達しそうだったのだ。
なにを惑う? たかが飲料ではないか。
さあ、意を決して一口――あぁん、苦い。
マグを置いたテーブルの正面。稲葉は控えめな態度で、雪解けの川を眺めていた。日が出ているので、そこまで寒さは感じない。
「話っていうのは?」
「あっ、
「え? 高学歴で、お金に困ってないことですか?」
「それは事実」
「ぐぇっ……」
高スペック女性の嘘――と聞いて、少しだけ心が躍った私は最低である。コーヒーを一口飲んで、己を戒める。苦い。
「キミに声をかけた理由やお」
「ヒマだったからでは?」
私の質問に対し目を落とし、彼女は「うん、まあ……」と曖昧な相槌を打った。
「あれから家で考えとったんよ、キミに絡んだ理由。で、わかったの。たぶん誰かを見下して、心を満たしたかっただけだって」
稲葉は快活で怜悧で、将来を約束された才女。ゆえの負い目、というわけか。郡上を吹き抜ける冷たい風はそこまで不愉快ではなく、また彼女の白状も同様に――
「でもそれは、多少なりと……興味を持ってくれたからですよね。それで色々と付き合ってくれたわけだし。普通こんなオジサンに声かけませんよ?」
「え……」
「それに人を見下してる奴は、謝罪なんてしません。工場のオッサンとか、そんな奴ばっかでヤバイですよ」
むしろ謝罪に対し、私は不思議と嬉しくなっていた。人間なんて嘘をつき続けて生きるのだから、それ自体が素直な感情だと思ってしまえば良い。
「キミは、なんて言うか……」
稲葉は呆れた顔で、肩の荷が下りたように笑っていた。
一拍。ほどなく一口――やはり苦い。
「それなら、私も謝っておきます」
ついでに私は、便乗にも似た謝罪を口にしてしまおうと思った。彼女も私のように、負い目に苛まれている匂いがしたからだ。
「なにぃ? 言ってみやぁ」
「昨夜話した内容、まったく覚えてません」
「おい」
「稲葉さんが飲ませるからですよ……」
「ほんなら、部屋に押しかけて既成事実作ってまえば良かったわ」
稲葉が顔を背け、不穏な言葉をつぶやいている。詳細は周りの雑音に掻き消されてしまったが、恐ろしい呪文だったので聞き返すのをやめた。
「では、仕切り直し……?」
私がそれとなく促すと、
「キミも好き者やね」
稲葉は手にしていたマグを力強く握ると、仕種から空気を一変させた。
「くだらん話やよ。高校の時、学校から留学の誘いがあって、最初わたしはそれを受け入れたんやけど、寸前になって……あんなおそがいトコ行けんと思て、理由つけて逃げてまったんよ」
「なるほど……。でも、一回くらいなら――」
「うん、誰もわたしを責めんかった。けど、その答えは簡単。人間は、他人の失敗や挫折を喜ぶ生き物だっただけ。なーんも咎めれんかったよ」
稲葉は続けた。それで余計に逃げ癖がついてしまった、と。
「失敗するくらいなら、なんもせんほうがええ。だから大学は、第二志望にした。会社の新規プロジェクトに参加できるチャンスにも、首を横に振った」
大学も企業も、私では到底入ることの叶わない場所だと心得ているからこそ、その後ろ向きな声を否定し、しかるべき言葉をかけてやれなかった。なにより彼女のムーブメントを一般人に置き換えたら、大体が当てはまっている。
ほとんどの大人は、目標から目を背けているのだから。
「で、そんな自分に嫌気さして、人と接するのが怖くなって、心が病んで、しょーもないことに浪費して、会社も辞めて、実家から少し離れたトコに引っ越して――」
稲葉は自虐の途中で大きな息継ぎをすると、
「んだで今は、手帳持ちで働いとらんの。生活保護で暮らす、ダメな女やよ……」
悲しそうに笑った。
「お金に困ってないって、そういう意味ですか」
確かに固定費を抑えれば、生活保護でも充分な日々を送れる。ましてや病気であれば、誰にも文句は言われないだろう。だとしても、なぜ私に――
「じゃあ、どうして……話したんです?」
「え?」
疑問符のあとに目を逸らす稲葉。その言動は、言及されるのをわかっていたかのようだった。
「黙ってても、その生活できるじゃないですか。それなのに、会ったばかりのオジサンに話すなんて」
「いや……別に、なんとなく……」
「稲葉さん、このままで良いだなんて、それこそ嘘なんじゃないですか? 本当は心の中で……このままじゃダメだって思ってるんじゃないですか?」
稲葉は自分の非を認めている。悪いところも、その理由も。
だが、なまじ大人までやってこられたから――大人になった今も、働かずになんとかやれてしまっているから――泥沼にハマって足が動かせないのだ。
「私にも高学歴の人の気持ちはわかりません。けど……稲葉さんの気持ちは……なんとなく、わかる……と思います」
沈黙とともに互いの動きが停止した。動いているのは無情な時間だけで、
「……バスの時間。何某くん、もうすぐ帰らなかんでしょ?」
会話を逸らすように、稲葉がスマホを取り出した。私も釣られて、店内の時計に目を移す。十三時半過ぎのバスに乗るには、そろそろである。
「行こっか? ふっ、見送ったげる」
私が抱いたのは共感性羞恥だった。彼女の不自然な笑みがわかりすぎたから。
店を出る間際、私が通りすぎてきた羞恥が頭の中を流れてゆく。
イヤホンをはめて、スマホのロックを外して。
下とばかり比べては、優越感に浸ってみて。
自分はまるで動かずに、安息を得続けて。
自責に耳を貸すのは、とにかく怖くて。
あすもまた、非現実へコネクトして。
稲葉は同じタクシーに乗り、インターのバス停まで来てくれたが、十分以上会話がなかった。彼女から教わった知識を引用するなら、互いの心は、
しかし、それはあくまで現状の話。互いが
「私は自分を見直す旅に出た結果、風変わりな女性に出逢って、少しだけ変われそうな気がしてます」
「そ、そうやね。力になれたんなら良かった……か」
稲葉は時刻表に目を配り、遠くへ目をやった。ほどなく高速道路の先にはバスが姿を見せ、彼女はそれが近づいてくるのを眺めていた。
「稲葉さん? 良ければ、また遊びに来ても良いですかね」
「え? あ……っ、そうやね! だったらキミの連絡先――」
「あぁ……それは嬉しいんですけど、スマホは帰宅まで使わないルールなので」
稲葉の見開いた目、ぽかんとした口、「そう……やね」と徐々に目を落としてゆく仕種。私は自分でも驚くくらい、彼女を冷静に眺めていた。けれど、決して拒絶したのではない。突き放したかったわけでもない。
「なので来年、同じ日にまた会ってくれませんか? お互い、良い方向に変わった状態で。私も痩せたり外に出たり、色々頑張るんで!」
「お互いが目標を決めて、それを達成する? わたしも、変われる……?」
こちらの意を汲み取ったように顔を上げた彼女に、私はアホみたいに何度も首を縦に振った。
「一年したら、わたし……ここ離れてるかもしれんよ?」
「その時はその時です。新しい人生を始めたってことじゃないですか」
「それに何某くんの都合だって……。キミ、仕事休めれんのじゃ――」
「絶対に休みます。稲葉さんとの約束のが大事ですもん」
バスが速度を落とし、バス停に近づいてくると、稲葉は開こうとしていた口を閉じ、しっかりと頷いた。
「昨夜、キミは無理してわたしの酒を飲んでくれた。あの時、わたしも変わるって約束しちゃったもんね。杯を交わした仲やし、逃げれんってことやね」
「えっ、あれ……既成事実作られてたんですか!」
稲葉
恐ろしい
「ま、まあ……今度は、郡上八幡城で起きた東軍 VS 東軍を聞かせてください。若い人の面白い話、たくさん聞きたいですし」
「若いって、わたし三十一やよ?」
「まさかの年上だったー!」
「んふふ」
年下にしか見えない稲葉某氏は、私の滑稽な言動に対し、ようやく昨日と変わらぬ――それでも心から声を出すような希望の笑みを見せてくれた。
「ほんなら元気で。何某くん、次は名前教えてちょぉ?」
「それはお互いにですね」
バスのエアブレーキ音を合図に、私は稲葉に首を垂れると、ただ純粋なお礼を伝えた――ありがとう。
運転席で二次元コードをかざし、前寄りの席に腰を下ろすと、窓の外に目を向けることもなく、バスは少ない余韻で郡上八幡を発った。
答えは一年後。それまでには、恥ずかしくない自分でありたいものだ。
翌日、連休最終日。
私は悪癖によってコンビニに吸い寄せられ、ジャンクフードの誘惑と戦っていた。レジ横に並ぶトランス脂肪酸の反射は、もはや貴石の輝きなのだから、涎が溢れるのも必至だった。
「馬鹿かオレは……頑張らないと!」
けれど、目標挫折を繰り返してきた私の胸には、三十年で感じたことのない期待感と、モチベーションが溢れていたのもまた事実だった。
いやはや、彼女と再会するための一年は出発から前途多難である。
了
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