§004 埃まみれの兵舎

 詰所から徒歩三十分。

 森を越え、山を越え、渡された地図を頼りにリヒトが辿り着いた先は木造に二階建て。

 兵舎とは名ばかりのおんぼろの建物だった。


 風雨にさらされてもはや解読が不能な看板に、雑草の伸びきった庭。

 雨漏りをしていてもおかしくないほどに禿げ上がった屋根。

 いつから放置されているのかわからない植木鉢やバケツ。


 それはとても士官にあてがう兵舎とは思えない荒れ具合だった。


 それに加えて、ここは完全なる山奥。

 地図だけで辿り着けただけでも賞賛に値する代物だ。


 一般的には訓練場に近接する場所に兵舎は建てられているはずなのだが……。


 俺はあまりの待遇の悪さに嘆息しつつも、指定された部屋の扉を恐る恐る開ける。


 するとそこには予想通りの光景が拡がっていた。


「まあ、外があれなら中だってこんなもんだよな……」


 扉の開閉に伴って埃がもわっと舞い上がり、白く染め上げられた室内。

 天井には蜘蛛の巣が張っており、唯一備え付けられている木製ベッドに飛び込む気にもなれない。

 まずは空気を入れ替えようと窓を開けようとするが、建て付けが悪いのか相当力を入れないと開かない。

 どこでぶつかったのかいつの間にか髪には蜘蛛の巣がべっとりと付いてるし、もう最悪だ。


「これは……まずは掃除から始めないとな……」


 ため息交じりに独り言ちると、荷物をどさりと置いて、掃除に取り掛かろうとする。


 しかし、更なる問題が発生する。


 水が出ないのだ。


「え、この兵舎……もしかして水も通ってないのか?」


 さすがにここまで来ると嫌がらせの域を超えているような気もするが……。


「しょうがない。水は近くに川がないかを探してみて……。あとは……必要物資の調達か……」


 街まで往復一時間の道のり。

 そう考えると気が重くなるが、水場の確保は急務だし、なんだかんだこの辺の地形を把握するにはいい機会なのかもしれない。


 そう思い直すと俺は外套を羽織り、水場を探しつつ、街へとゆっくり下ることにする。


 川の場所は先ほど詰所でもらった兵舎の地図から大体想像ができていた。

 谷に向かって真っすぐ進めばいずれは川にぶつかるはず。


 そうして歩き始めるが、山歩きに慣れていないリヒトには中々キツイ。


 アクアリーブルには四季があり、今の季節は春から夏の変わり目。

 気温は二五度にも達するため、額にも汗が滲む。


 アクアリーブルは海と山が同時に楽しめる街とは聞いていたが、まさかここまで大自然だとは思っていなかった。


 見たことない草木が原生しているし、おそらくまだ出会ってないだけで珍しい動物とかも多く生息しているのだろう。


 セントラル・ミドガルドでの生活と落差がありすぎて慣れるのには時間はかかりそうだが、元々知識欲が強いため、このような状況でも知的探求心は絶えない。


 薬草などにも興味があるし、今度、時間があるときにいろいろ調べてみようと思う。


 さて、肝心の川だが……と思って地図を広げようとすると……ふと聞き覚えのある音が聞こえた。


 鳥のさえずりで溢れる森には似つかわしくない音。

 俺が毎日のように耳にしていた音


 それは――剣が虚空を切り裂く音だった。


 俺はその音色に導かれるように森に分け入ると、その音の主はすぐに見つかった。


 開けた土地に静かに佇む――赤髪の少女。


 腰には白銀色の短刀剣スモールソード

 得物にそっと手を添え、腰を低く落とした抜刀の構え。

 深く深く瞑目した彼女から刹那に繰り出されるであろう斬撃を予感した。


 何かを期待して静かにだが確実に心臓がトクントクンと高鳴る。


 その予感に応えるように彼女の周囲から、まず音が消え、次に気配が消え。


 そして……最後に色が消えた。


 ――転瞬、凄まじいはやさの刃が弧を描いた。


 俺は目を見開いて、眼前で繰り広げられる光景に刮目する。


 上へ下へ、右へ左へ。

 腰丈まで流れる深紅の髪を振り乱し、一心不乱に短刀剣スモールソードを振るう彼女。

 それは猛々しく舞い踊る演舞のよう。


 そのあまりにも勇猛で気高い姿に、俺はある人物を重ねてしまっていた。


「……アリシア」


 俺は意識するより先に、気付いたらその名を口にしていた。


 その事実にハッとする。


 なぜ彼女が一瞬アリシアに見えたのか。

 髪色も体躯も全くの別人。見紛うことなどあるはずがないのだ。


 しかし、俺は彼女の演舞から目を離すことができなかった。

 それほどまでに彼女の剣戟には、何か惹き付けられるものがあったのだ。


「ちょっとそこの変態」


 けれど、次の瞬間、よく通る力強い声音が響き渡った。

 それと同時に突き付けられる切っ先。


「さっきから何こそこそ覗き見してるわけ? 斬られたいの?」


 いつの間に距離を詰めたのか。

 気付いた時には赤髪の少女が俺の前に立っていた。


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