第5話 水曜日2
あっという間に私は眠りに落ちた。そしてまたあの悪夢を見た。
あの森の中で何かに追い立てられている。足がもつれ地面に倒れ込む。そこまでは同じだった。しかしそれからの展開が少し違っていた。
目に入った墓標に刻まれた文字が劣化はしているが、前に見た夢の時よりも何と書いてあるかが少しだけ読み取れるようになっていた。
墓標の真ん中あたりに〈上〉と、下部に〈ビ〉そう書いてあるように見えた。
ミズエと顔が膨れ上がった女が姿を露す。そこは同じだったが、ミズエが私に語りかける言葉が違っていた。
「先生。心と記憶の蓋が少し開き始めてますね」
夢の中のミズエは今度はそう言った。
そして周囲を取り囲む狐たちに私は襲われた。
そこでまた私は目を覚ました。朝と同じように心に重苦しさが渦巻き冷や汗をかいていた。
時計を見ると正午を回っていた。
もうこれからずっと寝室に閉じ籠っていようか。そんな思いが心を支配し始めていた。ベッドから身体を起こす気力が底をつきカラカラに干上がっているように感じていた。
しかし、目を閉じ眠りにつくのは怖い。またあの悪夢を見てしまう事がとんでもなく怖いのだ。
どうしてあの夢を見る事にこんなに恐怖を感じているのだろう。
悪夢の類いなら今までも見てきた。
選挙に落選する夢。議会で酷い野次をこれでもかと投げつけ続けられる夢。高層ビルの屋上から誰かに突き落とされる夢。その他にも多種多様の悪夢を見てきた。
しかし今まで見た悪夢に、ここまで目覚めた瞬間心を重苦しくさせるものなど無かった。嫌な夢だったと感じても、数分もすればすぐに平穏さを取り戻す事が出来た。
でもあの夢は違う。私の心を容赦なく痛めつけ、深く深く抉って取ろうとしてくるのだ。
今まで見てきたどの夢よりも、手に触れた物の感触、音や色や匂いの鮮明さ、痛烈さが、気味の悪い生々しさに溢れているのだ。
夢の微少な変化もどこか不穏で、より不安にさせる要素だ。
夢の中のミズエの言葉にも何か不吉な意味が込められているような気がしてならない。
あの夢は本当にいったい何なのだろう。
寝室のドアをノックされ、家内の声が聞こえてきた。
「あなた、ちょっといいかしら?」
私の返事を待つことなく家内がドアを開き中へと入ってきた。
「すまない。体を起こす気力がないんだ……」
私がやっとの思いでそう呟くと家内は、「そのままで大丈夫よ」そう言って、私が寝ているベッドの隣にある、家内が使用している方のベッドに腰をおろした。
「実はね、私あなたに言ってなかったんだけど、最近変な物を見るようになったの……」
思いがけない言葉に私は言葉を失った。
「幽霊……なのかしら……」
家内は戸惑いと自分自身への不信感が入り交じったような複雑な声色でそう言った。
「夜中に気配を感じてぱっと目が覚めるの。それでね、気配がする方、あなたが寝ている方を見るとベッドの横に女が立ってるの。その女はね紺色のスーツを着たホステス風の女なの……」
紺色のスーツ……。ホステス風の女……。私はあの夢の中に出てくる顔が膨れ上がった女の姿を思い出して、全身が粟立った。これは偶然の一致なのか?
もし家内が見た幽霊と、私が夢の中で見た女が同一人物だったとしたら、それはいったい何を意味するのだろう?
それはきっと導き出してはいけない答えではないのかと本能的に感じた私は、すぐにその事に関して考える事を止めた。
「その女はね無表情であなたの事をじっと見つめてるのよ。顔は見たことない知らない女よ。それでしばらくするとぱっと消えちゃうの」
家内は恐ろしい話を淡々と一息に語り終わると、「変な事言ってごめんなさい」そう言って深い溜め息を吐いた。
私は家内に何と言っていいのか言葉が見つからなかった。というより、家内に対して何かしてやるという余裕が全くなかった。
私はただ自分が抱え込んでいる恐怖で手一杯だった。
しばしの沈黙の後、家内が口を開いた。
「あなたも何か見えてるんじゃない?」
その言葉を聞いて、私も家内が話してくれたように、〈もう一人の私〉の存在や、あの悪夢の事を打ち明けよう。一瞬そう思ったものの、いざ話そうとすると、言葉を自分自身で封じ込めている事に私は気づいた。
この期に及んで、まだ私は家内を心配させないようにと虚勢を張ろうとしているのだろうか。強い男だと。自分の足で立ち続け、自分を律し続ける強く立派な男だと。
結局私は何も言えなかった。
私が言葉を返してくるのを諦めた家内が話し始める。
「この家に変な物が憑いているんじゃないかって私心配になったからさっきミズエさんに電話したの。あなたの様子がおかしい事と私が見た幽霊の事を話したわ。そしたらさっそく今日来てくれるって。ミズエさんは用事があるから来るのはセリナちゃんなんだけどね。相談してみましょ。大丈夫よね?」
私はこくりと一度頷いた。
「良かった。部活が終わったあと七時くらいに来てくれるって」
私は家に来るのが夢に出てきたミズエではなくセリナだということに少しの安堵感を覚えた。
ミズエの顔を見たら私はきっと平然とはしていられないだろうと思ったからだ。
家内はベッドから立ち上がると、「今日何も口にしてないでしょ? 食欲はどう? 何か召し上がりますか?」そう私に訊ねた。私は首を横に振った。
それを見た家内は無言で出入口まで歩いていきドアを開けた。そして寝室から廊下へと出る直前、私の方を見ずに背を向けたまま、
「私、あなたのこと信じてますからね……」
そう言って寝室の外へ出ていきドアを閉めた。
私は家内のその意味深な言葉の意味を考える余裕はまったくなかった。ただ呆然と天井を見つめているだけだった。
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