第4話 水曜日
目覚めた瞬間、まるでこの世の終わりの日を迎えたかのような凄まじい重苦しさが胸に渦巻いていた。
ぐっしょりと寝汗をかき襟足がほのかに濡れていた。口の中と喉がカラカラに乾ききっていた。
毛布は床にずり落ち、シーツは滅茶苦茶に歪んでいた。
天井の模様が禍々しく目に映った。
私は悪夢を見ていた。
こんな夢だった。
再開発が進められている、あの森の中で私は何かに追い立てられていた。
中に足を踏み入れた事など一度もないのに、あの森だと私は確信していた。
必死にもつれる足を動かして霧が立ち込める夜の森を走っていた。
やがて力尽き木の根に足を取られ、濡れた柔らかい黒い土に深緑の草がまばらに生えた地面に倒れこんだ。腐葉土の匂いが鼻腔に流れ込む。
倒れた私の目線の先に灰色の石で出来た墓標が立っていた。
けばけばしい毒気を放った花束と線香が五本横倒しに備えられていた。
墓標に何か書いてあるが劣化が激しく読み取れない。
その墓標をずっと眺めていると、誰かが私に向かって歩いてくる気配がした。
ずざっ……。ずざっ……。
足音は二つあった。
私は上半身を起こして足音が向かってくる方を見る。
ゆっくりとゆっくりと女が二人歩いてくる。
霧が邪魔をして顔が見えない。
私は逃げなくてはいけないと危機感を覚え立ち上がろうとするが、金縛りにあったように体が動かない。
やがて霧はれて二人の女の顔が露になる。
一人は、ミズエだった。ジーンズに白いブラウス。
そしてもう一人、紺色の、ホステスが着るような鮮やかなスーツを着たその女は……誰だか分からなかった。顔は判別することが不可能な状態だった。
皮膚は紫色に変色し、正常な状態から二倍も三倍も風船のように膨れ上がり、目は皮膚の中に窪み、かろうじてそこにあるのが分かる。
二人が私のすぐ側までやってきた。
そしてミズエが冷徹な表情で私を見下ろしながらこう言った。
「先生。すぐにその心と記憶の蓋を取り払ってください」
私はその言葉を聞いた瞬間、猛烈な吐き気を覚えその場で吐いた。
気がつくと私の周囲に何かがゾロゾロと集まってきたのが分かった。
私は数十匹の狐に取り囲まれていた。
ミズエがどこからか取り出した鐘を鳴らした。
その瞬間、狐たちが私に襲いかかった。
そこで目が覚めた。
リアルな夢だった。記憶が高性能な映像機器で再生されているかのようだった。
私はベッドから降りて寝室のある二階から一階へ降りる。鉛のように体が重たい。足元がおぼつかない。それでもどうにかこうにか自分を奮い立たせ足を動かした。
洗面所にたどり着く。鏡の前に立つ。
鏡に映る私は、左の口角を思い切り上げ目を細めて不適な笑みを浮かべていた。
私はそんな顔などしていないのに。
やがて鏡の中の私が、私に向かって話しかけてきた。
あいつだった。〈もう一人の私〉だった。
「やぁやぁ。朝から浮かない顔してるねぇ。変な夢でも見たのか?」
「ど、どうして鏡の中にいる?」
「どうしてって、俺はお前でお前は俺なんだから鏡に映ってたって何も不思議じゃないだろう? まぁそんなことより早く顔洗ってリビングに行ってテレビ見てみな」
朝からいったい何だっていうのだ。胸の重苦しさは苛立ちに変わった。
顔など洗わずに私は鏡に背を向けてリビングへと向かった。
リビングのソファーには家内が座ってテレビを見ていた。テレビでは朝の情報番組が流れていた。家内の横に誰かが座っていた。
その誰かが私に気づいて顔をこちらに向ける。不適な笑みを浮かべる、〈もう一人の私〉だった。
「どうしてこんな所にいるんだ!」
思わず私は叫び声を上げてしまった。体を一度痙攣させて家内が私の方を怪訝な顔で見つめた。
「あなたどうしたの?」
「隣、隣に座ってる……見えないのか?」
「ちょっとあなた何言ってるの? 大丈夫? 顔色がとても悪いわよ」
家内は立ち上がり、私の元へと駆け寄ってきた。
家内には見えていない。そのことは一旦安心できる材料だった。
しかし私の苛立ちは収まらない。
ついにあいつは家内の前にも姿を現した。何が目的なのか。何がしたいのか。私をどうしてたいのか。
頭に血が昇る。叫び出したい衝動に駆られる。動悸が激しくなる。
もう一人の私はソファーに座ったまま顔だけ私たちの方へと向けて、ただ不敵な笑みを黙って浮かべていた。
私は今すぐにでもあいつに飛びかかって殴り倒してやりたい気持ちが沸き上がってくるのを必死に堪えていた。
そんな行動を取れば、家内に心身の状態をさらに心配されるだけだ。
私の精神状態は正常なのだ。
ふと、テレビの情報番組の音声が私の耳を捕らえた。
K市の駅周辺再開発工事現場で、巨大な木の枝の下敷きになり作業員が一人死亡した。
そんなニュースだった。
私は傍らにいた家内を押し退けテレビの画面に食らいついた。
太い枝をクレーン車のワイヤーで吊り上げてトラックに積み込む際に、ワイヤーが切れて枝が落下して、下にいる作業員が下敷きになったということだった。
私の胸がざわつき始めた。
これは祟りなのか? それともミズエが言うバケモノの仕業なのか?
そんなことあるはずがない。偶然起きた事故だ。
私は自分にそう言い聞かせた。
「工事に影響あるのかしらね……」
家内が私の横に立って心配そうにそう呟いた。
「悪い。今日は少し具合が良くないみたいだ。寝室で休むよ」
私はそう家内に言って寝室へと向かった。
ソファーに座っていた、〈もう一人の私〉はいつのまにか何処かへ消えていた。
まだ目覚めてから数十分しか経っていないというのに、私は心身共に疲労していた。
やっとの思いでたどり着いた寝室のドアを開ける。
すぐ目の前に、〈もう一人の私〉が立っていた。
「もう勘弁してくれないか? 家内の前に出てくるのもやめてくれ……」
震える声でそう言った私を見て、〈もう一人の私〉はケラケラと声を出して笑った。
「まぁまぁ別にいいじゃないか。それよりニュース見たんだろ? どういう気持ちだ?」
「工事現場には、ああいう事故は付き物だ。珍しい事じゃない」
「おいおいおい! 責任感じないのかよぉ! 清廉潔白な正義の市議会議員さんよぉ! 反対派のお前が止められなかったせいでどんどんどんどんこれから人が死ぬぞぉ! 悪いことが起きるぞぉ!」
〈もう一人の私〉が唾を飛ばしながら激しく私を詰った。私は体が震え始めているのを自覚した。
「そんなこと言ったって仕方ないじゃないか! 民主主義ってのはな、多数派が勝つんだ! 私が反対したって多数決で負ければどうする事も出来ないんだ! 私に何をしろっていうんだ! 何も出来ることなんてないじゃないか!」
私は震える体で必死にそう叫んだ。
それを見ていた、〈もう一人の私〉は腹を抱えてゲラゲラと笑い声を上げた。笑いが収まらない〈もう一人の私〉は、床をゴロゴロとのたうち回りながらゲラゲラと笑い続けた。
「苦しい! 苦しい! 笑いすぎて苦しい!」そう言いながら涙を溢しながらゲラゲラと永遠と笑い続ける。
私はそれをただ震えながら黙って見つめることしか出来なかった。
階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
私の叫び声を聞き付けたのであろう家内が寝室へとやってきた。
「あなた一人で何を叫んでたの? 本当に大丈夫なの?」
家内の表情は恐怖で青ざめていた。
「悪い。一人にさせてくれ。大丈夫だから。頼む……」
家内はどうするべきか迷った挙げ句に、私の頼みを聞いてくれた。家内は寝室から出ていった。
床に転がっていたはずの〈もう一人の私〉はいつのまにか姿をどこかに消していた。
私の全身を未だかつてないほどの疲労感が襲った。もう立っているのもやっとだった。
私はベッドへと身を沈めた。
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