第6話 水曜日3

 ふと気づくと、カーテンの僅かな隙間から差していた陽の光は消え去って、部屋は夜の闇で覆い尽くされていた。

 時計を確認すると十九時を五分ほど回っていた。

 もうそろそろセリナがやって来る時間だろうか。

 私は重たい体をなんとか起こして寝室を出た。頭の中の血管が鼓動に合わせて脈打つ。油断すれば破裂してしまいそうだった。そうならないように慎重に歩みを進めて階段を降りていく。

 一歩を踏み出すたびに足の甲と膝に鈍い痛みが走る。一日横になり体を鈍らせた代償だろうか。人の体はこうやっていとも簡単に綻びていくのだと実感した。


 階段を降りている最中に玄関のインターホンが鳴らされた。

「今いきますね」そう言って家内が玄関へと小走りで向かっていったのが分かった。

 私は普段の三倍近くの時間をかけてようやく階段を降りきった。そしてその場から見える玄関の方へと顔を向けると家内に向かって頭を下げる制服姿のセリナが見えた。

 なにやら家内と一言交わした後、首を真横に傾けたセリナの視線が私を捉えた。家内もそれに合わせて後ろを振り返った。

 セリナも家内もなんとも形容しがたい神妙な表情をしていた。

 私は何故だか申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらセリナに向かって会釈を返し、玄関の方へと歩いていく。

 私の到着を待たずに家内がセリナを家の中へと招き入れた。

 颯爽とした身のこなしでセリナが私の元へと駆け寄ってきた。体を綻ばせた私とは決定的に違う身体的な若々しさがあった。


「先生お体大丈夫ですか?」

「部活で疲れているところ申し訳ないね」

「いえいえ。全然疲れてないんで私は大丈夫です」

 そう言うとセリナは照れ臭そうに笑った。

 セリナが私の体を支えようとしてくれたので、私はそれを手で合図して制止した。

「そこまでしてもらわなくて大丈夫だよ。自分で歩けるからね。そんな老人に見えるかい? まぁ中学生からしたらお爺ちゃんか」

 私はそう言って気づくと声を出して笑っていた。ついさっきまで少しも喋る気力が湧かなかったのが嘘みたいに軽口を叩けた事に自分でも驚いた。

 人との交流を無理矢理にでも持つことがなんとか生きる気力を保つ事に繋がるのかもしれないと私は思った。

 家内に促されて私とセリナは応接間に向かった。

 一昨日と同じようにテーブルを挟み向かい合ってソファーに私とセリナは腰を下ろした。

 カップに注いだコーヒーを二つ、家内が応接間へと運んできた。家内はそれをテーブルに置くと、

「私の事は電話でもう話してあるから、あなたの事をセリナさんにちゃんと話して頂戴。私がいると話しづらい事もあるでしょうから、私はここから出るわね」

 そう言ってそそくさと応接間から出ていこうとした。セリナは少し慌てながら家内に「コーヒー、ありがとうございます!」そう言葉を掛けた。

 家内は応接間から出る直前に「セリナちゃんそれじゃよろしくね」そう言って微笑むと応接間のドアを閉めた。


「改めて、忙しいところ来て貰っちゃって悪いね」

「いえいえいえいえ! 本当にもう……とんでもないです……」

 セリナはぺこぺこと何度も軽い会釈を繰り返した。

 どこか居心地の悪さを感じているのか視線が定まらない。まだ中学生なのだから無理もないだろう。長居させるのは気が引ける。私は早速本題に入った。

「妻からは何となく聞いていると思うんだが……」

「はい……奥さまは女の幽霊を見たと。それで先生も何か見えているかもしれないとのことでした……」

 セリナの定まらなかった視線が私の顔をしっかりと捉えたのが分かった。セリナが私の目をしっかりと見つめながら続ける。

「何か見えている物があるのであれば正直に仰ってください」

 何かのスイッチが入ったかのように、セリナの口調からそれまであった年相応のあどけなさが消えた。ミズエを思わせる重みが籠った。

 私はそんなセリナの言葉を聞いて、不思議だが何もかもきちんと話さなければいけないという気にさせられた。

 家内には打ち明けられなかった事を、私はごく自然に、何かに導かれるようにすらすらと全て話していた。

〈もう一人の私〉の存在。そしてあの悪夢の事を……。


 私の話を聞き終えたセリナはしばらく眉間に皺を寄せ下唇を噛みながら考え込んだのち、

「やっぱり野狐の仕業なのかもしれませんね……」

 そつポツリと呟いた。

 やはり、〈もう一人の私〉は狐が化けたものなのか。

「今日も狐は私の家にいるのかな?」

「一昨日よりも数が増えてます……」

「増えている? どうして我が家に狐は寄り付くのだろう?」

 そう私が疑問を投げ掛けると、さっきまでしっかりと私の目を捉えていたセリナの目が泳ぐのが分かった。動揺しているのだろうか。それとも私に言いづらい事があるのだろうか。

「何か思い当たるフシがあるのかな? 何か言いづらい事があっても私には気を使わず何でも話してくれないかい?」

 私がそう言うと、セリナは気まずそうな表情で私を見た。そしてしばらく考え込んだ後、意を決したように口を開いた。

「一昨日お祖母ちゃんも軽く触れていたように、バケモノに付きまとわれている方は心に暗部がある方がほとんどです。なぜならバケモノは人間の心の闇に取り入ろうとするものだからです。ですから、先生がこれだけの野狐に付きまとわれているという事であれば、それは先生の心にもきっと暗い部分があるという事になるはずなんです」

 そう話しているうちに、セリナの泳いでいた目はみるみるうちに再び鋭さを取り戻した。


「失礼します!」

 セリナは身を乗り出し、一昨日やったのと同じように私の頭に手を置き目を閉じた。霊視しているのだ。私の身が強ばる。しばらくしてセリナは目を開け頭から手を離した。

「何か見えたかい?」

 私は恐る恐るセリナに訊ねる。セリナは首を横に振った。

「心に暗いところがあれば大抵は何かが見えます。でも先生からは何も見えない。まるで重たい蓋で閉じられているみたいに何も見えません……」

 蓋……。私は悪夢の中のミズエの言葉を思い出してぞっとした。

 私は知らず知らずの内に、私自身の心の暗部に蓋をして閉じ込めてしまっているのかもしれない。私の心の暗部とは何かを考えてみる。

 しかし、自分自身の事なのにも関わらず、自分にどんな悩みや不安があるのかまったくもって検討がつかなかった。心の傷、トラウマ。そういった類いの物も思い当たるフシがまったくなかった。

 私はその事をセリナにありのまま話した。

「分かりました。完璧に除霊するためには、その人の心の暗部も解決しないといけないのですが、仕方ありません。一応今日は除霊して帰ります。しばらく変なものは現れないはずです。でも完璧ではないので、また何ヵ月後か、何年後かに復活するかもしれませんが……」

「あぁそれでもいいよ。しばらく楽になれれば。私の心の暗部についてはこれからじっくり、自分自身と向き合って探していくよ」

 私の言葉にセリナは無言で大きく二度頷いた。自分自身を納得させているようだった。


 セリナは持参していた鞄の中から金色の鐘を取り出した。

 そしてそれを一度鳴らした。

 厳かで澄みきった音が部屋中に鳴り響いた。  


「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ! オンアビラウンケンソワカ!」


 セリナが呪文のような言葉を力強く唱えた。

 ふと空気が軽くなった気がした。


「野狐は一匹残らずいなくなりました」

「そうかい。どうもありがとう。今日はもう遅いからどうぞ帰宅してくださいね」

 私の言葉に肩の荷が降りたのかセリナの表情が一気に緩んだ。年相応のあどけなさが戻った。


「それじゃあ私はこれで帰ります」

 セリナは鐘を鞄にしまうとそう言ってさっとソファーから立ち上がった。

 応接間を出て、セリナを玄関まで見送る。リビングから何かを入れたビニール袋を持って家内が出てきた。

「セリナちゃん、今日はありがとうね。これ持ってて。駅前のケーキ屋さんで買ったの。ショートケーキにモンブラン。あとシュークリームも入ってるわ」

 そう言って家内はセリナにビニール袋を手渡した。

「えー! いいんですか! 嬉しい! ありがとうございます!」

 セリナは甲高い声で叫び声を上げた。こうして見ると普通のどこにでもいる中学生だ。強い霊能力を持っているようには見えない。

 セリナは何度も頭を下げながら外へ出て、そして自転車に乗って帰っていった。


「あなた夕飯どうします?」

「あぁ。食べるよ」

 セリナの除霊のおかげが私の心も軽くなり、食欲も戻っていた。


 








 


 

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