第2話 火曜日
カイトの熱は下がったが、念のため今日も幼稚園は休ませることにした。
幼稚園に欠席の連絡を入れ、洗濯に取りかかる。
昨日油まみれになった服はカイトの分も含めてビニール袋の中に詰め込んで洗濯機の横に置いていた。
それを見ると昨日の恐怖が甦ってくる。
昨日の夕方、仕事から帰ってきた夫のマサヒコに橋の上での出来事について話したが「災難だったなぁ」と一言だけ言ったあとはへらへらと笑うばかりで真剣に取り合ってはくれなかった。
私はとにかく強烈に恐怖を感じたし、マサヒコにもそれが伝わるように話したつもりだったが無駄な努力だった。
もうずっとここ何年か、マサヒコは子育てにも私のことにも、家族のこれからについてさえ真剣に向き合ってくれなくなった。
口ではちゃんと考えているとは言うが、とてもそうとは思えない。
未就学児がいる家庭は特例で、世帯月収が規定以上あっても市営団地に住むことができるが、その子供が小学生にあがり未就学児がいなくなれば、この団地を出ていかなければいけないという決まりになっている。
もうすぐその時はやって来るというのに、今後どうするのか話し合いをしようと持ちかけても、頼りない返事が返ってくるだけなのだ。
私は心底マサヒコにはがっかりしている。
仕事も長続きせずにコロコロ変えていた。そのせいで収入も増えない。
なら私がパートに出ようとしてもカイトの面倒は誰が見るのだとそれを許さない。
昔は魅力的な男だった。その面影は今、もうどこにもない。
なんでこんな男と結婚してしまったのだろう。
毎日のようにそう思っている。
ラインの通知音がなった。
見るとサクラからのメッセージだった。
サクラから来るなんて何年ぶりだろう。
〈昨日はどうも! さっそくだけど明日ランチどうよ?〉
〈行く行く!〉と返信のメッセージを入力しかけた所で指を止めた。心に急ブレーキが掛かった。
今の私とサクラでは住んでいる世界が違うと、引け目を感じている自分がいた。
サクラと一緒にいたら惨めな気持ちになるのが目に見えている。会いたいけど会えない。
何のメッセージも送らずに私はスマホの画面を閉じた。
「ママ、お外で遊びたい」
カイトがベランダで洗濯物を干している私の足を叩きながらそう言った。
「風邪まだちゃんと治ってないんだからお部屋でおとなしくしてなけゃ駄目だよ。またお熱でちゃうよ」
カイトは私のその言葉に素直に従って部屋の中へとおとなしく戻っていった。
外で遊びたくなるくらい体調が回復したのなら安心だ。
ほっとすると同時に手がつけられなくなるほどに遊び回る姿を想像して憂鬱にもなった。
なんでこんなにも複雑で厄介な感情を持ち続けなければいけないのだろう。
そう考えていたら洗濯物を干す手を止まった。
空を見た。雲ひとつない。真っ青な空だ。
没個性に建ち並ぶ一軒家たちと電柱。私たちの部屋がある三階のベランダから見える景色は、決して見晴らしが良いとは言えない。だけど空はよく見える。
確かに外で遊びたくなるくらいの快晴だ。穏やかな風も気持ちいい。
しかし、そんな清々しい気持ちになったのは一瞬だった。
突然背筋に緊張が走った。
昨日橋の上で感じた殺気の籠った〈視線〉がまた私を捕らえているのだ。
いったいどこから?
私は後ろを振り返った。テレビを見ているカイトの姿と見慣れた部屋の様子がそこにあった。ここじゃない。
私はベランダの縁まで行き手をついて下を覗き込んだ。
道路と団地の敷地を隔てる生け垣。その生け垣と団地との間にある、人が一人だけ通れるくらいのスペースがある。そこに目深に麦わら帽子を被った男が上を見上げていた。
帽子が影を作り顔はよく見えない。それでもはっきりと分かった。
あれだ。私に向けられていた〈視線〉はあれだ。
私の全身に鳥肌がたった。
通報しないと……。
昨日送られてきた防犯情報メッセージの文面が頭に浮かんだ。
私は部屋の中に入りスマホを手に取った。その瞬間、着信を知らせる流麗なメロディーが鳴った。
知らない番号からだった。
嫌な予感がした。
それでも出るべきなのか否か考える隙も与えられず、見えない何かに無理矢理導かれるかのように、私はその電話を受けた。
「おかあさんえんじてますか。いいあぶらがとれそうですね」
まるでカラスの鳴き声を押し潰したような男のダミ声がスマホの向こうでそう言った。
それだけで電話は切れた。
私は下にいた男からの電話だと直感した。
再びベランダに出て下を覗き込んだが、あの男はどこかに姿を消していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます