第三章『産まなければよかった』

第1話 月曜日

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 K市防犯情報。

 K警察署からのお知らせです。

 本日午前8時頃、市営よつば団地の敷地内において、8歳の男の子が中年の男に「お母さんはえんじてますか。いいあぶらがとれそうですね」などと意味不明な言葉を掛けられる事案が発生しました。 

 男の特徴:年齢40~50歳くらい。中肉中背。腕と脛に黒いカバーのような物を装着。

 お子さんに対し、危険を感じたら(その場から逃げる・近くの人に助けを求める・防犯ブザーを使用する・大声を出す)などを繰り返し指導し、不審者を見つけましたら直ちに110番通報をお願いします。

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 熱を出した五歳の息子カイトを診てもらうために訪れたクリニックの待合室で、ラインに届いたK市からの防犯情報メッセージを読んで私はいきなり当事者意識を持たされることになった。

 なぜなら市営よつば団地は私たち家族が住んでいる団地だからだ。

 これまでこのメッセージに届く情報は、特殊詐欺の電話がかかってくるから騙されるなとか、交通事故に気をつけましょうだとかそんな物ばかりだった。

 K市は平和な街だと思っていたのに、ここの所、何か不穏な空気がこの街に蠢いている気がする。

 中年の女性が監禁されていた事件。中学校のプールサイドで女子大生が倒れていた事件。

 立て続けに全国ニュースで報じられるような大きな事件が起きた。

 私も何らかの事件に巻き込まれてしまうのではないかという漠然とした不安を感じていた。

 それが漠然としたものではなく、はっきりと明確な物へと変化しているのが分かった。

 気がとんでもなく重たくなる。


「ママ、まだぁ?」

 カイトが足をぶらぶらさせながら泣きそうな顔でそう聞いてきた。

 カイトは普段、元気が良すぎて困るくらい走り回ったり、大きな声で騒ぐ子なのだが、今日は熱があるからなのかとてもおとなしい。

「きっともうちょっとで順番くるよ。辛かったら寝てな」

 私が腿の上に置いていたトートバッグを床に下ろすと、カイトは体を横に倒し私の太股を枕にして目を閉じた。

 熱は心配だが、正直おとなしくしてくれるのは助かる。手がかかないから肉体的な負担が少ないのだ。

 不審者情報が流れた日にこの状態なのは不幸中の幸いだ。部屋に閉じこもっていれば不審者と出くわす事もないだろう。買い物も二、三日行かなくても大丈夫だと、頭の中で部屋のストッカーや冷蔵庫の中の事を思い浮かべた。十分に食料品も日用品も蓄えにまだ余裕がある。


 カイトの体をさすりながらぼうっとしていると、「あれ? ユキナじゃない?」そう顔を覗かれながらグレーのスーツを着たポニーテールの女性に声を掛けられた。私はその顔を見て驚いた。

「あれ? サクラ?」

「そうだよサクラだよ! 久しぶり!」

 数年ぶりに会う友人との偶然の再会だった。


 サクラは高校時代の友人で、三年間ずっと同じクラスだった。

 気が合う仲間として、行動を共にしていたグループの中の一員だった。

 大学は別々になった。それでもしばらくは連絡を取り合ってよく遊んでいたが、私が結婚してからは疎遠になっていた。


「ちょっと何年ぶりよ?」

 奇跡に近いような偶然にサクラはとても興奮していた。

「ねっ? 元気だった?」

「元気だよ。ユキナは? あっ、カイト君! 大きくなったねぇ」

 サクラは空いていた私の隣の椅子に座るとカイトを見て目を見張った。サクラから香水の良い匂いが漂ってきた。私はもう何年も香水など付けていなかった。


「カイト君具合悪いの? あっ起こしちゃったね。ごめんね」

 カイトが目を覚まして身体を起こすと、不思議そうにしばらくサクラを見つめたあと、はにかんだように顔をくしゃっとさせた。私はカイトの頭を撫でた。


「熱が出ちゃったの。風邪だと思うんだけど……」

「そうなんだ。子育て大変だよね。私子供いないから偉そうなこと言えないけどさ……」

「まぁ大変は大変だけどね……ところでサクラは今日はどうしたの?」

「私今、医療機器メーカーの営業やってて。ここの病院が取引先だからその関係で……」

「そうなんだ……凄いね……」

 サクラがとても輝いて見えた。それに引き換え私は……。


「もうそろそろ行かないと。ねぇお互い忙しいけどたまにはまた会おうよ。食事行こ。連絡するから。じゃあね。カイトくんバイバイ」

 そう言って私たちに手を振って慌ただしくサクラはクリニックから出ていった。カイトが控え目に手を振る。

 私も手を振りサクラを見送る。

 サクラの姿が見えなくなった途端、私は猛烈に鏡を見て自分の姿を確認したくなった。

 サクラはスマートにスーツを着こなし、髪も爪もしっかりと整えメイクも隙がなく綺麗だった。とても精悍で輝いていた。

 それに比べて今の私はどうだろう?サクラの目に私はどう映っただろうか。

 メイクも髪の毛も爪も、家事と育児の忙しさにかまけておざなりになってしまっている。おしゃれさよりも楽さで選んでいるパーカーとジーンズも、よくよく見れば色褪せてどこか貧乏臭さが滲み出ている気がする。

 きっと今の私はとてもみすぼらしい。


 私はたまに、自分が選ばなかった違う人生を想像する。私もサクラのようになれただろうか。

 もしこの子を産むという選択を取らなかったら、もしこの子を────

 そんなこと考えたら駄目だ。そう分かっているのに……。


「西原さん。西原カイトさん診療室一番にどうぞ」

 そんな私の気持ちを断ち切るように看護士の声が聞こえた。

「順番きたよ。行こう行こう」

 私は怠そうに椅子から降りたカイトを抱きかかえた。

 私の気持ちなど知る由もないカイトは、その小さすぎる体で精一杯の力を込めて私にぎゅっと抱きついた。


 診断はおそらく軽い風邪だろうということだった。

 私は少しほっとした。

 クリックの隣にある薬局で薬を処方してもらい帰宅することにした。


 バスに乗り、よつば団地近くのバス停で降りる。

 そこからぐったりしているカイトを抱きかかえながら徒歩で、よつば団地へと帰る。

 五分ほどの道のりだが、なかなかに大変だ。五歳ともなればそれなりの重さだから。


 バス停から、K市を流れる竜神川にかかる橋を渡って二車線の道路を渡るとよつば団地がある。

 月曜日の午前。もうすぐ正午。人通りも車の通行もまばらでとても静かだ。竜神川の水面がキラキラと光っている。


 橋のちょうど真ん中あたりを歩いている時だった。 

 私は思わず足を止めた。

 穏やかな風景に似つかわしくない〈視線〉が私とカイトを捕らえているとふいに感じたからだ。

 背後から?前から?横から?空から?

 どこから見られているのか、掴めそうで掴めない。はっきりとしない。それでも私とカイトを〈視線〉が捕らえていると明確に自覚できた。

 その〈視線〉に、殺気のようなものが込められている気がして私は背筋が凍りついた。

 キョロキョロと周囲を見渡すが誰もいない。

 とにかく早くここから立ち去って部屋に戻らなくては。

 

 ぐっとカイトを抱きかかえる腕に力を入れて早足で歩きだそうとしたその時、突風が吹いた。

 右の視界の端に青い何かがちらついた。

 目の前をブルーシートがひらひらとはためきながら猛スピードで通過した。そして上昇し、空へと吸い込まれていった。

 そのブルーシートは竜神川の方から飛んできたようだった。

 私は橋の縁まで近づいて川を眺めた。橋から十メートルほど行った河原にテーブルと椅子とガスコンロと長い鉄串のような物が放置されていたのが見えた。

 さっきのブルーシートはあそこから飛んできたのだろうか?

 ホームレス?あんな所にホームレスなどいただろうか?クリニックへ行く時にはあんなものは無かったはずだ。それとも今までずっと気づかなかっただけ?


 とにもかくにも私は早く帰ろうと再び歩きだす。

 ふと気づくと私とカイトの全身いたる所に粘度の高い液体のような何かが付着していることに気づいた。

 触ってみるとそれは油だった。

 私とカイトは油まみれだった。


 

 


 

 


 










 




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