第3話 火曜日2
スマホを持つ手が震える。立ち尽くしたまま私はどうしたらいいのだろうかと考えを巡らせた。
やはり警察に電話した方がいいのだろうか。
カイトが不思議そうに私を見つめながら、「ママ、洗濯物干してないやつまだあるよ」そう言った。本当は「どうかしたの?」そう言いたいに違いない。
「うん大丈夫大丈夫。すぐにやるよ」
私はそう言って満面の作り笑顔をカイトに向けた。
作り笑顔……。電話の向こうの「おかあさんえんじてますか」の声が頭の中でこだましていた。
演じてますか?私は母親を演じているだけなのだろうか……。
いや、こんな時に私は何を考えているのだろう。そんなこと考えている暇はないじゃないか。そう我に帰った。
やはり警察に電話をしよう。私はスマホの画面に目をやった。電話をかける前に着信履歴を確認してメモを取っておこうと思った。スムーズに警察と電話でやり取り出来るようにしておくために。
確か非通知ではなく、電話番号が通知されていたはずだ。
「えっ?」
確認するとさっきの電話の着信履歴が無くなっていた。昨日クリニックに掛けた電話の履歴が記録の最後だった。
無意識のうちに履歴を消去をした?いや、そんな訳がない。あの男からの電話が切れたあと私は一切スマホの画面を操作していない。
治まりかけていた鳥肌が再び全身に立ち登った。あの男はもしかしてこの世の物じゃない?
そんなあり得ない考えが頭を支配し始めたその時、玄関チャイムが鳴った。
「いやっ!」驚きのあまり私は悲鳴を上げスマホを床に落とした。
「ママ?」カイトがビクッと体を震わせたあと私の顔を不安と怯えが混じった表情で見つめていた。
「ごめんね大丈夫だよ」
カイトを不安にさせないように私は優しく語りかけたつもりだったが、明らかに声が震えていた。
不安にさせちゃ駄目だと思いながらも、もしかしてあの男がここまでやってきたのではないかという想像が私の恐怖を駆り立てていた。
出来れば無視してしまいたい。でも無視したらカイトが不審に思い、さらに不安を深めてしまうかもしれない。
だから行かなくては。
私は震える足をなんとか動かして玄関まで歩いていった。
そして恐る恐るドアスコープを覗いた。
玄関前に立っていたのは、上下黒いジャージを着たショートカットの若い女だった。
「ど、どちら様ですか?」
私は一度深呼吸したあと、決死の思いでそう口に出した。
後ろを振り返るとカイトが泣きそうな顔で立ち尽くしながら私を見ていた。
「突然訪ねてしまってすいません。私はK中学の横山セリナって言います」
言葉の選び方に中学生っぽさはあるが、口ぶりはとても落ち着いた雰囲気だった。舞台俳優が演技をしているときのような美声だった。
しかし今は平日の午前だ。中学生なら学校に行かなくていいのだろうか?
「どういったご用件ですか?」
「友人に会いにこの団地に来たんですけど、この部屋から少し変な気が漂っているのをたまたま発見しまして……」
変な気が漂っている?心当たりが大有りである。
何なのだろうこの子は。
そう思いながらドアを開けるべきか黙って悩んでいると、慌てた様子の別の女の大きな声が聞こえてきた。
「す、すいませんユキナさん! マナミです! 尾木マナミです!」
「マナミちゃん?」
ドアスコープを再び覗くと、ショートカットの女、横山セリナの横に見知った尾木マナミの姿があった。
私の心に一気に安堵感が広がった。
尾木マナミは近所付き合いのある、同じ団地のママ友、ユカリの妹だった。
マナミは頻繁にこの団地にあるユカリの家へと遊びに来ていた。私がユカリの家に行くと高確率でマナミも居た。だからユカリと同じようにマナミとも仲良くしていたのだ。
私は扉を開けた。
セリナが私に頭を下げた。私も釣られて頭を下げた。
セリナはうっとりするほどの美形だった。中性的で何とも言えない神秘的なオーラがあった。
「すいませんユキナさん。突然変な事言ってびっくりですよね」
マナミが眉毛を思い切り下げて困り顔でそう言った。
「いやいや気にしないで。っていうか学校はどうしたの?」
「今日は創立記念日で休みなんです……」
マナミはそう言うと困り顔から嬉しそうな微笑みに表情を変えた。
私もマナミと同じ中学出身なのに今日がそんな日なんて事はすっかり忘れていた。
「実は昨日父親と喧嘩してムカついたんで家出して、お姉ちゃんのとこに泊めてもらってたんです。で、それでこれから部活なんですけど、このイケメン先輩がが迎えに来てくれて……」
マナミがセリナの腕に絡み付きながら嬉しさを隠しきれないといった様子でそう言った。恋人同士みたいだった。
「ちょっ近い近い! ベタベタするなって!」
クールな様子だったセリナが急に慌てふためいて、マナミを遠ざけようと腕に絡み付くマナミの手を振り払おうとした。
なんとも微笑ましい光景に、さっきまでの恐怖感が嘘のように溶けていた。
マナミが口を尖らせながらセリナから離れた。
するとセリナが真剣な表情に戻った。
「改めて申しますと、この部屋から変な気を感じたので訪ねさせてもらいました。ユキナさん。今、直接お目にかかって分かったことがあります。変な物に付きまとわれてますよね?」
変な物……。殺気の籠った視線と麦わら帽子の男。その事だろうか。もしそうだとしてなぜこの子に分かるのだろう?
「セリナ先輩は霊能力なんです」
マナミがぽつりとそう呟いた。
「失礼します」
そう言うとセリナは私の頭に手を置き目を閉じた。
私は思わず身が強ばった。
しばらくするとセリナは手を頭から離して目を開けた。
「ユキナさんの心の中にある、葛藤や複雑な思い見えました。そして昨日今日起こったことも……」
セリナの口調に重みと威厳が宿った気がした。嘘は言っていない。なぜだかそう確信出来た。
「麦わら帽子の男はこの世の物じゃないバケモノです。気をつけてください。バケモノは人間の心の闇につけこんで来るものなんです……」
セリナの視線が鋭く私を見据えていた。私は少しも身動きが取れそうにない。セリナの言葉をただ黙って聞くしかなかった。
「だから自分を卑下しないでください。ちゃんとお母さん出来てるから大丈夫ですよ」
セリナはそう言い終わるとニッコリと微笑んだ。
私は何故だか泣きそうになった。
「ありがとう……ございます……」
私はセリナの顔を見つめながら自然とそう呟いていた。
「あっ、もしよろしかったらユキナさんとお子さんの髪の毛を一本頂けませんか? 何かあったときにそれがあれば駆けつけることが出来るんです」
セリナのその言葉に私は戸惑いながらどうすればよいかマナミに助けを求めた。
「大丈夫ですよ! セリナ先輩は信用できますから!」
マナミがキラキラとした笑顔でそう言ったので、私は髪の毛を差し出すことにした。
セリナが私の髪の毛を一本抜いた。
「カイト君! 元気してた?」
後ろでずっと立って私たちのやり取りを見ていたカイトにマナミが声をかけた。
マナミに懐いているカイトが玄関の方へと笑顔で駆け寄ってきた。
マナミがカイトの髪の毛を一本抜いた。
抜いた髪の毛をセリナが透明ビニールの小袋に入れて、それを肩から下げていた鞄にしまった。
「今この街はあの世とこの世の境が曖昧になっています。バケモノを近づけないために玄関とベランダに盛り塩をしておいたらいいかと思います。神社に行って魔除けの御守りを買って出掛けるときには身に付けたりとかしてもいいかもしれません。それじゃ私たちは部活に行きます。失礼しました」
セリナはそう言って頭を下げた。
「ユキナさんそれじゃ! カイト君バイバイ!」
マナミがカイトに向かって手を振った。カイトはマナミが行ってしまうのが寂しいといった表情で手を振り返していた。
セリナには、まだ中学生だとは思えない存在の説得力と威厳があった。
私はセリナの言う通りにしようと決めた。
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