第9話 木曜日
昨日の騒ぎが嘘だったように、学校はいつも通りの日常をあっさり取り戻した。
相変わらずプールにはブルーシートが貼られ、立ち入り禁止を示す黄色いテープが張り巡らされている。
そこだけは物々しい雰囲気を保ったままだが、校舎の中はいたって通常運転で時が過ぎていた。
昼休み、言い知れない不安を抱えながら私は図書室へ向かった。
写真を手放した。だからもう私の前に髪の濡れた女が現れることはないと昨日ミズエさんに言われた。安心していいと。
でも私の心からは一向に不安は去ってくれない。
出入口の前で先に到着していたセリナが、中には入らずに扉の前に立っていた。
何故かバドミントン部のユニフォーム姿だった。 白いVネックのシャツに赤いミニスカート。シャツの胸には校名が赤いローマ字でプリントされている。
さらに肩から白い布で出来た鞄を下げている。
セリナは私に気づくと軽く手を上げた。
気取った仕草なのに、セリナがやると嫌味がない。
「どうしてユニフォーム着てるんですか?」
「やっぱりこれが一番気合い入るんだよね。ここに来るまでみんなの視線が痛かったけど」
セリナも他人の視線を気にするのか。そんな風には見えないから意外だった。
しかし、気合いが入るとはいったいセリナは何をしようとしてるのだろう?そんな疑問をぶつけるとセリナは、
「今日、方がつくならそうしちゃった方がいいからさ……」
と、真意が見えそうで見えない言葉を口にした。
その言葉で、私の胸の不安はさらに大きくなった。
「そうだ。念のためこれ手首につけといて」
セリナは肩に下げた鞄から黒い数珠を取り出して私に差し出した。
私は戸惑いながらそれを受け取った。
「何かあったらそれが身代わりになってくれる」
「それって……」
私の不安を見透かしたように、セリナは私の背中をぽんと一度手のひらで叩いた。
「西川さんを危険目に合わせるのはどうかと思ったけど、でもあなたの力がたぶん必要なの」
どういうことなのか、まったく理解出来なかった。頭が混乱してくる。私の力が必要?なぜ?なんのために?
私はただひたすらに怖くなった。
「大丈夫だから……」
セリナは私の手から数珠を奪い取ると私の手首にそれをさっと通した。そして、その手首をぎゅっと握った。セリナは私の手首を握ったまま、
「さて。いるかな?」
そう呟いて図書室の扉を開いた。
セリナが図書室の中に入っていく。それに引っ張られて私も中へと入った。
受付カウンターへと一直線に向かっていく。
そこには、あの図書委員の彼女がいつも通り、いつも通りの顔をしながら椅子に座っていた。
「こんにちは。昨日はどうも山下フミカさん」
セリナは明るいトーンだが淡々とした口調で図書委員の彼女に声をかけた。山下フミカ。彼女の名前らしい。セリナはいつのまに名前を調べたのだろう。
「こんにちは……何か御用ですか?」
フミカは椅子に座ったまま私達を見上げて、顔色ひとつ変えず無表情でそう応えた。堂々と落ち着き払っていた。
「なんであんな事するの? 目的はなに?」
「何の事ですか?」
セリナもフミカも淡々とした口調を崩さない。それでもその中に強い対抗心みたいなものが込められているのを感じた。
「呪いを拡散させてるでしょ」
セリナは迫力ある一段低い声になってそうフミカに凄んだ。
私だったらこんな風に凄まれたら、一瞬でぺしゃんこに押し潰されてしまうだろう。でもフミカは顔色を少しも変えない。こんなに強い子だったとは思わなかった。
図書室のいつものメンバー、机に突っ伏して寝ている彼も、歴史書が好きな彼も顔を上げてこっちを見ていた。
その二人に向かってセリナは、
「悪いけど、今日はここから出ていって貰えるかな?」
そう声をかけた。
二人とも戸惑いつつ、何度も何度も私達の方を訝しげに見ながら図書室を出ていった。
男の子二人が出ていったのを見届けたセリナが口を開いた。
「あなた罪の意識とかないの?人が一人死んだんだよあなたのせいで。それにこの子も危ない目にあったんだ。髪の毛の濡れた女のバケモノに追いかけ回されてた。怨念の籠った写真を挟んだ文庫本を持ってたばっかりに」
セリナのその言葉を聞いて、フミカの表情が初めて崩れた。ニヤッと笑った。
「そんなに効果あるんだ。凄い。やって良かった」
「やって良かった?ふざけんなよ!」
セリナが激昂したように叫んだ。
フミカが立ち上がった。
「図書室で大きな声出すのやめてもらえますか?」
フミカはそう言ったあと下唇を噛みながらセリナをじっと睨んだ。
「どうしてあんな事したのかだけとりあえず教えてくれない?」
セリナは落ち着いた口調に戻ってフミカに迫った。
フミカは黙ってただ、下唇を噛みセリナを睨み続ける。
セリナも黙って鋭い眼差しでフミカを見つめ続ける。
私は立ち尽くして、ひたすら成り行きを見守るしか出来ない。図書室を沈黙が支配した。
永遠に続くかと思えるほどだった沈黙は、しばらくして破られた。
フミカが口を開いた。
「どうして? 猟奇殺人犯に殺された被害者の写真を猟奇殺人犯が出てくる本に挟んだら強力な呪物が出来るんじゃないかって思い付いたから試しただけ」
フミカは無表情に戻り、淡々と一息でそう語った。
どうやったらそんな恐ろしい事を思い付つくのだろう。私は背筋が凍りついた。
フミカは続ける。
「M県女子大生連続殺人事件って知ってる? 大学生の男が知り合った女子大生に次々と手をかけた」
セリナはじっと押し黙ってフミカの話を聞いている。
「被害女性はみんな、水を貯めたバスタブに顔だけを押し付けられて窒息死させられたんだって……」
どうして私に付きまとっていたバケモノの髪が濡れていたのか私は理解した。腑に落ちるような答えが出た所で、なんのカタルシスも無かった。
「写真はネットの事件記事とか、まだ残ってる被害者のSNSアカウントから拾ってきた画像を私が写真サイズにプリントアウトしたの」
一通り言い終えたフミカは、受付カウンターの中から出てきてセリナの横に立った。そして、「もういい? 昼休み終わっちゃうよ」そうウンザリしたように呟いた。
セリナはフミカの方に体を向けた。
「まだ終わりじゃない。本を回収しないと。どこに呪いの本を売ったか教えてくれる?」
「H市の大型古書店にもう一冊あるはず。もうそれだけだよ」
そう言うとフミカは図書室から出ていこうとした。
「待って!」そう叫んでセリナが引き留めた。そしてフミカの後ろ姿へと捲し立てるように話を続けた。
「また明日もここに来るから。また話をしてくれる? あなたが拡散した呪いの本を回収したらそれで終わりじゃない。あなたの心のわだかまりや暗い場所をなんとかしないと本当の意味で呪いを解いたことにならないから」
出入口扉付近まで行っていたフミカがこちらを振り返った。
「来なくていいよ。明日から昼休みに図書室来るのやめる。ずっとやめたかったの。委員会の仕事だからって義務感で来てたけど馬鹿らしくなった。だって意味ないから。誰も本なんて借りにこない。仕事なんて何もない。私はただぼうっとカウンターに座ってるだけ……」
フミカは心底うんざりしている様子だった。図書室にずっといたにも関わらず、私は彼女がそんな事を思っていたなんて思いもしなかった。少し胸が痛くなった。
フミカは溜め息をひとつ吐いた。
そして、誰かに聞かそうとも思っていないような、限りなく独り言に近い声でそっと呟いた。
「私がいなくても誰も困らないし……私なんていてもいなくても同じ……」
ぴちゃん────
フミカが言葉を言い終えるとすぐに、水が滴り落ちる音が図書室の中で響き渡った。そしてその後、
「山下フミカさんいてもいなくても同じなら私と変わってください」
抑揚がなく、感情のこもっていない、不気味なほどに淡々とした、機械的で人間らしさがまるで感じられない女の声が聞こえた。
ぴちゃん────
フミカの頬を水滴が濡らしたのが見えた。
フミカの頭上を私は見た。
そこには、髪が濡れた女の顔があった。
生首が宙に浮いていた。
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