第10話 木曜日2

「いる……いるっ!」

 私は思わずそう叫びながらフミカの頭上を指差した。

「なんで?」

 セリナが小さく低く呟いた。

 なぜ自分の頬に水滴が落ちたのか理解出来ずに、戸惑うように呆然としていたフミカが自分の頭上を見上げた。

「きた……きたあああ!」

 そう叫ぶフミカは嬉しそうだった。眼球が溢れ落ちそうなほど目を目一杯見開いて、天井を見つめ続けていた。

「本、持ってるの?」

 セリナがフミカに訊ねた。フミカは頭上を見上げたまま受付カウンターの方を指差した。

 セリナが受付カウンターに駆け寄る。そして手を伸ばして何かを手に持った。

 平山夢明の『異常快楽殺人者』の文庫本だった。

 セリナがページを捲る。そしてその中から写真を取り出しぐしゃぐしゃに丸めて放り投げると、「やってもうた……。フミカの心に気を取られすぎて本に気づかなかった……」そう呟いた。

 

 写真に何が写っているのか確認出来なかったが、セリナの切迫した表情と行動で私は全てを察した。 


「あげる……代わってあげる!」

 歓喜の声を上げながらフミカは天井に手を伸ばして、上から滴り落ちる水滴を、まるで恵みの雨のように顔に浴び続けていた。

 手を伸ばして露になったフミカの制服の袖口から見えた白く細い手首には、一本の引っ掻き傷が真っ直ぐ横断していた。

 私はそれを見て恐怖と共に、酷くいたたまれない気持ちが沸き上がってきた。

「もうだいぶ取り込まれてる……」

 そう呟いたセリナは鞄から金色に光る鈴のような物を取り出すと、それをチリンと一回鳴らした。

 水滴が滴り落ちる音を書き消すように、鈴の厳かで清らかな音が鳴り響いた。


「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ! オンアビラウンケンソワカ!」

 セリナがそんな呪文のような言葉を天井の髪の濡れた女の生首を指差しながら叫んだ。

 すると髪の濡れた女の生首がくるくると回転を始めた。無表情だった顔が苦悶の表情に変わった。


 セリナはもう一度鈴を鳴らす。


「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ! オンアビラウンケンソワカ!」


 髪の濡れた女の生首がくるくると回転を続ける。

 しばらくすると回転が止まった。その瞬間、生首がすとんと真っ直ぐ落下した。

 フミカの足元に生首が落ちる。フミカはしゃがんで生首に触れようとした。

「私が代わってあげる! 私が!」

 そう言いながらフミカは両手で髪の濡れた女の頬に触れた。


「駄目よフミカさん! 引き返して!」

 そんなセリナの叫びを無視してフミカは生首を手に取ると胸の中に抱き入れた。

 その瞬間、生首がビクビクと猛烈な勢いで痙攣し始めた。あまりの勢いにフミカは抱き留める事ができない。女の生首がフミカの胸の中から飛び跳ね離れて、また床に転がった。

 

 明るかった図書室が突然薄暗くなる。照明が消えた。

 床に転がった髪の濡れた女の首から、生理的嫌悪感を誘う、灰色と緑色と黒色が混じった気味の悪いまだら模様をした何かがうねるように生えてきたのが見えた。

 柔らかくしなやかなだが、それと同時にどこか筋肉質で獰猛────

 あれは蛇だ。蛇体が女の首から生えていたのだ。


 蛇体に髪の濡れた人間の女の顔がついている? 髪の濡れた人間の女の顔に蛇体がついている? 

 そんな事はどちらでもいい。とにかく目の前にいる。信じられないほどに薄気味悪い異形のバケモノが。

 

「いやああああ!」

 私は思わず悲鳴を上げた。

 セリナは眉間に皺を寄せて立ち尽くして、どうしたものかと思案しているようだった。

 床に座りこんだフミカは呆然と蛇体の女を見つめている。

 蛇体の女がフミカの周りをうねうねと這いずり回る。

 その間も蛇体の女の髪から水滴がポタポタと滴り続けていた。


 セリナは鈴をしまった鞄から今度は白い粉のような物が入った小さな瓶を取り出した。瓶を手のひらの上で逆さまにする。

 蛇体の女が口を大きく開ける。フミカの首めがけて食い付こうとしていた。


「フミカから離れろバケモノ!」

 

 セリナの手から白い粉が放たれた。白い粉はフミカと蛇体の女に降りかかる。

 蛇体の女は顔を仰け反らした。すんでのところでフミカの首は無事だった。


「ぐるううううううううう────」

 蛇体の女から地を這うような低音が出音されている。苦悶の声のようでいて、威嚇するような声でもあった。

 私はとんでもなく恐ろしくなって足が震え始めた。手首に着けた数珠を反対の手で握りしめた。


 蛇体の女がセリナの方を見た。そして口を開いた。

 口の中からずりずりと舌が延びてきた。細長い針金のような舌だった。みるみるうちに舌は伸びて、五メートルほど離れているセリナの目前まで近づいていた。セリナが身構える。舌が一瞬動きを止めた。

 セリナが白い粉が入った瓶を床に投げ捨て、鞄の中に手を入れた瞬間、蛇体の女の舌が物凄い勢いで一直線にセリナの顔面へと向かって伸びた。

 セリナが素早く横方向に体ごと避ける。

 しかし完全には避けきれずにセリナの肩に舌が突き刺さった。


「いやああああ!」

 私は悲鳴を上げた。

「うっ……」

 セリナは短く低い声で痛みに悶えた。肩からは血が流れ、白い腕を赤く染めた。しかし怯むことなく、鞄から取り出した手鏡の鏡面を蛇体の女に向けた。


 鏡を見た蛇体の女の顔は青ざめていた。

「ぎいいいいいいい! ぎいいいいいいい! ぎいいいいいいい!」

 蛇体の女が耳をつんざく悲鳴のような甲高いノイズを発した。


「残念だけど……すっごく残念だけど、こんな事言うのは酷だけど、これが今のあなたの姿なのよ!」

 セリナが叫んだ。

 混乱したかのように蛇体の女が出鱈目に床を這いずり回る。


「残念だけど、フミカの命を奪ったところでもうあなたは元には戻れないの! でも大丈夫。私がなるべく綺麗に成仏させてあげる!」


 動きを止めた蛇体の女がセリナを見た。セリナが身構える。

 蛇体の女は体をくねらせながら猛スピードでセリナに向かってくる。

 セリナは鏡を投げ捨てると、鞄から黒い墨汁で文字が書かれた短い木製の棒を取り出した。

 それを額に当てながら、


「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ! オンアビラウンケンソワカ!」


 あの呪文みたいな言葉を二倍速でセリナは口に出した。

 蛇体の女がセリナの足元まで近づいた。セリナは身を翻してそれを避ける。セリナを通りすぎた蛇体の女が踵を返してまたセリナへと向かってくる。

 セリナが片膝をついた。セリナと蛇体の女の目線の高さが合う。蛇体の女がセリナめがけてずるずると迫ってくる。蛇体の女が大きな口を開ける。それがあともう少しでセリナの頭部を飲み込もうかというとき、

「おりゃああ!」

 セリナがあの短い木製の棒を蛇体の女の頭頂部目掛けて思い切り縦に振り下ろした。


 木製の棒は蛇体の女の頭に綺麗にヒットした。

 

 蛇体の女の動きがぴたっと止まった。すると蛇体の色が次第に薄くなっていく。そして嘘みたいに蛇体がその場から消えた。

 しばらくすると、蛇体が伸びていた場所には、本来あるべき人間の体があった。

 バケモノじみていた女の表情が、生きた人間の温度が感じられる物に変わった。

 セリナが床に投げ捨てた鏡を拾って、倒れている髪の濡れた女に近づく。そして膝立ちをして鏡面を髪の濡れた女に向けた。女が鏡を見る。

「もう大丈夫。あなたの悲しみや苦しみは私が引き取る。だからゆっくり眠って。あなたみたいな人をこれ以上増やさないように私頑張るから……」

 セリナは倒れている髪の濡れた女の頭に手をかざしながらそう優しく囁いた。

「えいっ!」

 セリナが手をかざしたまま力強い声をあげると、髪の濡れた女は穏やかな微笑みを浮かべながら、すっとその場から消えた。 

 

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