第2話 月曜日2
机に置いたままにしていた『イン・ザ・ミソスープ』を慌てて手に取ると、私は図書室から飛び出し、図書室がある校舎四階の女子トイレに逃げこんだ。
一番手前の個室に入り洋式便座に腰を下ろす。
体がガタガタと震え始める。
右手に持っていた文庫本を折り目がつきそうになるほどに、思いきり強く握りしめていた。
あれは何? あれはいったい何なの?
そう叫び出したい気持ちをぐっと私は堪えた。
落ち着け。落ち着け。
目を閉じて、何度も何度も深呼吸を繰り返す。そうしているうちに少し落ち着いてきた。
それでも完全に平常心を取り戻すまで、まだしばらく時間がかかりそうだった。
昼休みの残り時間があとどれくらいあるのか、時計を持っていないので分からないが、チャイムが鳴るまではここでじっとしていようと私は決めた。
昼休み明けの教科は英語だ。英語担当の女性教師はおおらかで融通の効くタイプの教師だから、多少遅れて行っても問題ない、許してくれるだろうと思った。
平常心を保っていない挙動不審の状態で教室に戻れば、クラスメイトたちからの嘲りの視線が降り注ぐに決まっている。授業が始まってしまえばクラスメイトたちの私への関心はきっと薄くなる。だからそうしたほうが絶対にいい。
私はただひたすらぼうっとしながら時間が過ぎるのを待った。
しばらくすると出入口のドアが開く音がして誰かが中に入ってきた。
喋り声は聞こえない。一人で来たみたいだった。
足音がこちらに近づいて……こない。
用を足しに来たのではなく、ただ洗面所の鏡を見にきただけか。そう思った次の瞬間、
コン……コン……。
足音が扉の前まで来ていないのにも関わらず、私が入っている個室のドアがノックされた。そして声が聞こえた。
「西川さん西川さん西川さん」
声の主は私の苗字を口にした。
抑揚がなく、感情のこもっていない、不気味なほどに淡々とした、機械的で人間らしさがまるで感じられない女の声だった。
悪い予感がした。この声に反応するのは危ない。そう本能が働いた。
この不気味な声の主は私を呼んでいるのか?
この学校に西川という苗字の生徒はきっと私以外にも何人かいるはずだ。この声の主が私を呼びに来たとは限らない。不安な気持ちを拭い去りたくて、私はそう自分に言い聞かせた。
「西川さん西川さん。西川ヒナタさん」
西川ヒナタ。それは私の名前だった。
この声の主は私を狙っている。
私の体がまたガタガタと震え始めた。
私は必死に息をひそめ、悲鳴をあげそうになるのを口に左手を押し付けて押し殺し、その声を無視し続けた。
ぴちゃん────
水滴が落ちる音が聞こえた。
ぴちゃん────
トイレの中に響きわたるその音を聞いて、図書室で見た髪が濡れた女が私をここまで追いかけてきたのだと私は理解した。
あの女は私を狙って追いかけてきたのだ。
足元に不気味な異変を感じた。ドアの下の隙間からすうっと水が流れ込んで来ていた。
その水が私の上履きの底を濡らした瞬間、目の前が真っ暗になって意識が飛んだ。
気づくと私は廊下に立ち尽くして、外から自分がいるべきはずの教室の中の様子を見つめいていた。
英語の授業はとうに始まっていた。
私の席には誰もいない。空席だ。
それにも関わらずクラスメイトも教師も、何事もなかったかのように授業を進めていた。
私の存在など誰も気にしていない。いや、誰もが私の存在など忘れている。
私なんていてもいなくても同じだった。
急に虚しくなって、私は荷物を教室に残したまま学校を飛び出して家に帰った。
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